桶谷秀昭の「蝉声と戦争」(日経新聞8月12日文化欄)は、まず蝉のことからはじまっておりました。そのはじまりの箇所を紹介しておきます。
「台風のおまけまでついた、例年にないながい梅雨がようやく明けて、溽暑(じょくしょ)の日がつづき、八月に入って明け方から蝉の声がきこえるようになった。『やがて死ぬけしきはみえず蝉の声』という芭蕉の句は、だれもが知っているから、引く必要はないであろうけれども、あの全身で生命を燃えつくさんばかりに鳴きつづけるのを聞いていると、胸さわぎがしてくる。今から六十年前、戦争の時期に、日本の現代詩人伊東静雄は、『庭の蝉』という詩に『一種前生(ぜんしょう)のおもひとかすかな暈(めま)ひ』におそわれたことを、うたっていた。・・・」
(ちなみに、日経新聞のこの日には、森澄雄の「私の履歴書」が12回目。それから「江戸の風格」として野口武彦の連載もあり、野口氏のその日は「三囲神社」という題)
さて、伊東静雄という名前が登場していたので、ちょうどいいので、この機会に伊東静雄の詩を読んでみようと思ったわけです。意外と伊東静雄の詩は多くないので、詩の味わいとは別にして、蝉を探すだけなら、簡単に楽しめます。
はじめに登場するのは詩集「夏花」にある「いかなれば」という詩に蜩が出てきます。その箇所をすこしはじめから引用してみます。
いかなれば
いかなれば今歳(ことし)の盛夏のかがやきのうちにありて、
なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。
夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末(こぬれ)をえらぶかの蜩の哀音(あいおん)を、
いかなればかくもきみが歌はひびかする。
・・・・・・・・・・・・・・・
詩集「春のいそぎ」には、「七月二日・初蝉」と「羨望」、そして「庭の蝉」と蝉が登場する詩が並びます。シロウトの私には「羨望」がおもしろく感じられました。それとは、別にして、ちょいと思ったのは夏の歌が印象に残ります。ちょうどいまが夏だからそう感じるのかどうか、鮮やかな印象を残す詩に夏が登場します。『海水浴』『夏の終り』(同じ題で、二つの詩)。
有名な詩はすぐにでも、読めるでしょうから(そうでもないか)、
ここでは、拾遺詩篇から、ちょっと何げなくも捨てがたい詩を引用しておきます。
高野日記より
八月二十三日友を大門(だいもん)のほとりに送る
その道よ朝ごとの霧にしめれり
とだえつつ山かげに鳴くはかなかな
つとに来し高野の秋の
土産ものすすむる店に
並べしはされど春の鶯笛
青塗りの竹の小ぶえなり
ともに店頭(みせさき)にたち
こころみる単調のその音(ね)
ゆくりなく二人が笛の
共鳴のかなしからずや
見はるかす木の國
雲移る檜原杉山(ひばらすぎやま)
家に待つ汝が愛しき児に
えらぶらむ同じその笛
友よわれも一つ欲し
多宝塔いよよ朱(あか)きに
われ獨りふかみゆく秋にのこりて
いかに居む山の宿りぞ
「台風のおまけまでついた、例年にないながい梅雨がようやく明けて、溽暑(じょくしょ)の日がつづき、八月に入って明け方から蝉の声がきこえるようになった。『やがて死ぬけしきはみえず蝉の声』という芭蕉の句は、だれもが知っているから、引く必要はないであろうけれども、あの全身で生命を燃えつくさんばかりに鳴きつづけるのを聞いていると、胸さわぎがしてくる。今から六十年前、戦争の時期に、日本の現代詩人伊東静雄は、『庭の蝉』という詩に『一種前生(ぜんしょう)のおもひとかすかな暈(めま)ひ』におそわれたことを、うたっていた。・・・」
(ちなみに、日経新聞のこの日には、森澄雄の「私の履歴書」が12回目。それから「江戸の風格」として野口武彦の連載もあり、野口氏のその日は「三囲神社」という題)
さて、伊東静雄という名前が登場していたので、ちょうどいいので、この機会に伊東静雄の詩を読んでみようと思ったわけです。意外と伊東静雄の詩は多くないので、詩の味わいとは別にして、蝉を探すだけなら、簡単に楽しめます。
はじめに登場するのは詩集「夏花」にある「いかなれば」という詩に蜩が出てきます。その箇所をすこしはじめから引用してみます。
いかなれば
いかなれば今歳(ことし)の盛夏のかがやきのうちにありて、
なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。
夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末(こぬれ)をえらぶかの蜩の哀音(あいおん)を、
いかなればかくもきみが歌はひびかする。
・・・・・・・・・・・・・・・
詩集「春のいそぎ」には、「七月二日・初蝉」と「羨望」、そして「庭の蝉」と蝉が登場する詩が並びます。シロウトの私には「羨望」がおもしろく感じられました。それとは、別にして、ちょいと思ったのは夏の歌が印象に残ります。ちょうどいまが夏だからそう感じるのかどうか、鮮やかな印象を残す詩に夏が登場します。『海水浴』『夏の終り』(同じ題で、二つの詩)。
有名な詩はすぐにでも、読めるでしょうから(そうでもないか)、
ここでは、拾遺詩篇から、ちょっと何げなくも捨てがたい詩を引用しておきます。
高野日記より
八月二十三日友を大門(だいもん)のほとりに送る
その道よ朝ごとの霧にしめれり
とだえつつ山かげに鳴くはかなかな
つとに来し高野の秋の
土産ものすすむる店に
並べしはされど春の鶯笛
青塗りの竹の小ぶえなり
ともに店頭(みせさき)にたち
こころみる単調のその音(ね)
ゆくりなく二人が笛の
共鳴のかなしからずや
見はるかす木の國
雲移る檜原杉山(ひばらすぎやま)
家に待つ汝が愛しき児に
えらぶらむ同じその笛
友よわれも一つ欲し
多宝塔いよよ朱(あか)きに
われ獨りふかみゆく秋にのこりて
いかに居む山の宿りぞ