伊東静雄の詩「そんなに凝視(みつ)めるな」は、詩集反響の中の「凝視と陶酔」に収められています(人文書院「定本 伊東静雄全集」ではp139)。
まずは、その詩を引用してみます。
そんなに凝視(みつ)めるな
そんなに凝視めるな わかい友
自然が与へる暗示は
いかにそれが光耀にみちてゐようとも
凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ
鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな
夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
手にふるる野花はそれを摘み
花とみづからをささへつつ歩みを運べ
問ひはそのままに答へであり
堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ
風がつたへる白い稜石(かどいし)の反射を わかい友
そんなに永く凝視めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
ああ 歓びと意志も亦そこにあると知れ
詩は詩を連想しますね。
たとえば、5行目の「鳥の飛翔の跡を天空にさがすな」という一行など
私はご詠歌を連想しました。道元の和歌にこんなのがあります。
水鳥の行くも帰るも跡たえてされども路(みち)はわすれざりけり
この意味はというと、松本章男著「道元の和歌」(中公新書)によれば
「水鳥たちは、秋は南へ渡ってゆき、春は北へ帰ってゆく。行路には何の跡をも残さないが、しかし、水鳥たちはその行路を忘れることがない」(p122)。
他の行でも、連想した詩があります。たとえば現存詩人で岸田衿子の詩に
雪の林の奥では
雪の林の奥では
立ちどまってはいけません
歩いていないと
木に吸いこまれてしまうから
という短い詩があります。これなど、つい「夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな」という一行と結びつけたくなります。もうひとつ、こんなのはどうでしょう。
なぜ 花はいつも
なぜ 花はいつも
こたえの形をしているのだろう
なぜ 問いばかり
天から ふり注ぐのだろう
この岸田衿子さんの詩は、
「花とみづからをささへつつ歩みを運べ 問ひはそのままに答へであり」という行と関連づけたい気持ちに、私はなります。まあ、それはそれとして「定本 伊東静雄全集」の後記を桑原武夫氏が書いておりました。格調ある文です。その文のはじめの方にこうあります。
「・・ただ、伊東は日本近代詩史に、するどい不滅の痕跡をのこしたという確信のうえに、この全集はあまれたのであり、伊東についてのあらゆる問いへの答は、ここに含まれているはずである。」(p551)
この後記には、つぎに全集編纂の経緯が語られておりました。
「未亡人は、伊東が生前詩集に収録することをひかえた未熟な初期の作品を世間に再発表することは、故人の盛名をきずつけることにならないだろうか、また、日記、書簡などの公表は私生活の暴露であって、特定の個人に迷惑を及ぼす恐れはないだろうか、という懸念を最初しめされた。遺族としてもっともな配慮であって、私も心中いささか同感するところがあったのである。」
こう成り行きを書きながら、桑原氏はつづけて、書くのでした。
「・・彼の初期作品、日記、書簡等は、伊東個人についてのみならず、一般に、詩人はいかにして形成されるか、詩は詩人のうちにいかにして成熟してゆくかについて、さらに昭和初期の敏感な青年はいかに悩みつつ生きたかについて、多くの示唆をあたえるに相違ない。この仕事を不自然に回避することは、文学を裏切ることになりかねず、逆に、十全の用意をもってこれを行なうことは、伊東の真価を改めて問う機会となるに違いないのである。・・・」
ここで、桑原武夫のこの確信はどこから、きたのか?
と問うてもよいですよね。
1953年6月の創元選書「伊東静雄詩集」解説を桑原武夫は書いております。
そのなかで、こんな箇所がありました。
「私は『わがひとに与ふる哀歌』をもらったとき、その一応の美しさしか理解できなかった。戦後、それを読みかえして、その烈しい美しさにひどく打たれ、十年前に真価を十分とらえ得なかったことを恥ずかしく思い、伊東に手紙でわびた。」
ところで、この解説で、桑原武夫(「桑原武夫集3」岩波書店・p537)は、ある問いをなげかけておりました。
それはどんなものだったのか。引用しておきます。
「伊東静雄は、昭和において真に本質的な仕事をなした最も純粋な詩人である。
・・・・彼は日本の近代詩に消しがたい痕跡をのこして去ったのであって、その細くするどい痕跡がいかに深く切れこんでいたかは、時がたち、幅ひろく浅い痕跡が磨滅するにつれて、はっきりしてくる。日本人が真に詩を愛しつづけるかぎり、百年後、彼の名は一そう光をましているであろう。」(後記・1966年)
この百年後のために「定本 伊東静雄全集」(1971年)は編まれたわけです。
ちなみに、谷沢永一著「執筆論」(東洋経済新報社・p150)で、谷沢さんはこう書いておりました。
「同僚の源氏学者である清水好子から以前に伝えられた桑原武夫の名言を思い出す。いわく、ジャーナリズムにおける仕事では、言々句々、人を驚かせなければならない、と。正統派を以って自任する学者たちからいかに罵られようと知ったこっちゃない。世間の意表を衝く、この執念が出版界の期待に応える道である。・・・」
伊東静雄は、明治39年(1906年)生れ、昭和28年(1953年)に48歳で亡くなっております。あと半世紀の間に、はたして、桑原武夫の予言は?
その「問ひはそのままに・・・」
まずは、その詩を引用してみます。
そんなに凝視(みつ)めるな
そんなに凝視めるな わかい友
自然が与へる暗示は
いかにそれが光耀にみちてゐようとも
凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ
鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな
夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
手にふるる野花はそれを摘み
花とみづからをささへつつ歩みを運べ
問ひはそのままに答へであり
堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ
風がつたへる白い稜石(かどいし)の反射を わかい友
そんなに永く凝視めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
ああ 歓びと意志も亦そこにあると知れ
詩は詩を連想しますね。
たとえば、5行目の「鳥の飛翔の跡を天空にさがすな」という一行など
私はご詠歌を連想しました。道元の和歌にこんなのがあります。
水鳥の行くも帰るも跡たえてされども路(みち)はわすれざりけり
この意味はというと、松本章男著「道元の和歌」(中公新書)によれば
「水鳥たちは、秋は南へ渡ってゆき、春は北へ帰ってゆく。行路には何の跡をも残さないが、しかし、水鳥たちはその行路を忘れることがない」(p122)。
他の行でも、連想した詩があります。たとえば現存詩人で岸田衿子の詩に
雪の林の奥では
雪の林の奥では
立ちどまってはいけません
歩いていないと
木に吸いこまれてしまうから
という短い詩があります。これなど、つい「夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな」という一行と結びつけたくなります。もうひとつ、こんなのはどうでしょう。
なぜ 花はいつも
なぜ 花はいつも
こたえの形をしているのだろう
なぜ 問いばかり
天から ふり注ぐのだろう
この岸田衿子さんの詩は、
「花とみづからをささへつつ歩みを運べ 問ひはそのままに答へであり」という行と関連づけたい気持ちに、私はなります。まあ、それはそれとして「定本 伊東静雄全集」の後記を桑原武夫氏が書いておりました。格調ある文です。その文のはじめの方にこうあります。
「・・ただ、伊東は日本近代詩史に、するどい不滅の痕跡をのこしたという確信のうえに、この全集はあまれたのであり、伊東についてのあらゆる問いへの答は、ここに含まれているはずである。」(p551)
この後記には、つぎに全集編纂の経緯が語られておりました。
「未亡人は、伊東が生前詩集に収録することをひかえた未熟な初期の作品を世間に再発表することは、故人の盛名をきずつけることにならないだろうか、また、日記、書簡などの公表は私生活の暴露であって、特定の個人に迷惑を及ぼす恐れはないだろうか、という懸念を最初しめされた。遺族としてもっともな配慮であって、私も心中いささか同感するところがあったのである。」
こう成り行きを書きながら、桑原氏はつづけて、書くのでした。
「・・彼の初期作品、日記、書簡等は、伊東個人についてのみならず、一般に、詩人はいかにして形成されるか、詩は詩人のうちにいかにして成熟してゆくかについて、さらに昭和初期の敏感な青年はいかに悩みつつ生きたかについて、多くの示唆をあたえるに相違ない。この仕事を不自然に回避することは、文学を裏切ることになりかねず、逆に、十全の用意をもってこれを行なうことは、伊東の真価を改めて問う機会となるに違いないのである。・・・」
ここで、桑原武夫のこの確信はどこから、きたのか?
と問うてもよいですよね。
1953年6月の創元選書「伊東静雄詩集」解説を桑原武夫は書いております。
そのなかで、こんな箇所がありました。
「私は『わがひとに与ふる哀歌』をもらったとき、その一応の美しさしか理解できなかった。戦後、それを読みかえして、その烈しい美しさにひどく打たれ、十年前に真価を十分とらえ得なかったことを恥ずかしく思い、伊東に手紙でわびた。」
ところで、この解説で、桑原武夫(「桑原武夫集3」岩波書店・p537)は、ある問いをなげかけておりました。
それはどんなものだったのか。引用しておきます。
「伊東静雄は、昭和において真に本質的な仕事をなした最も純粋な詩人である。
・・・・彼は日本の近代詩に消しがたい痕跡をのこして去ったのであって、その細くするどい痕跡がいかに深く切れこんでいたかは、時がたち、幅ひろく浅い痕跡が磨滅するにつれて、はっきりしてくる。日本人が真に詩を愛しつづけるかぎり、百年後、彼の名は一そう光をましているであろう。」(後記・1966年)
この百年後のために「定本 伊東静雄全集」(1971年)は編まれたわけです。
ちなみに、谷沢永一著「執筆論」(東洋経済新報社・p150)で、谷沢さんはこう書いておりました。
「同僚の源氏学者である清水好子から以前に伝えられた桑原武夫の名言を思い出す。いわく、ジャーナリズムにおける仕事では、言々句々、人を驚かせなければならない、と。正統派を以って自任する学者たちからいかに罵られようと知ったこっちゃない。世間の意表を衝く、この執念が出版界の期待に応える道である。・・・」
伊東静雄は、明治39年(1906年)生れ、昭和28年(1953年)に48歳で亡くなっております。あと半世紀の間に、はたして、桑原武夫の予言は?
その「問ひはそのままに・・・」