和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

炎天下の滋味。

2007-08-27 | Weblog
昨日は飲み会。私は地方に住んでいながら、田植えも稲刈りも知らない身であります。ちょうど、この時期。稲刈りが始まっております。さて、飲み会の話題に、稲刈りの話がまじります。私は聞き役。そこで、そういう聞き役に分かりやすいようにお米の話をしてもらえる。稲刈りをして、竹の竿にその稲を干す作業がある。近頃は、乾燥も機械ですませる方が、簡単にすませられるのだけれど、ちゃんと干す。その方が味が違うというのです。けれども天日干しをすると労働力が機械ですます時の三倍はかかる。手間が三倍かかるけれども、売る時は同じ値段になるのは、どうも解せない。たとえば、ちゃんとした寿司屋は、必ず天日干しの米を予約して買うのだそうです。味が違う、というのです。ただ、稲を干すのには風がないといけない。日差しだけでは水分が逃げないのだそうです。そうして出来た米は、違う、というのです。いまでは自分の家で食べる分だけでも、干しているのだそうで、別荘に来ている人に、その米をわけると誰もが味が違うというのだそうです。


午後の飲み会の前に、松本章男著「道元の和歌」(中公新書)を読んでおりました。そういえば、そこにこんな箇所があったのです。

「仏道修行に専心することを『辦道(べんどう)』ともいう。
禅林では修行僧中の第一位が首座(しゅそ)とよばれるが、道如(どうにょ)首座は高名な官人の子息であるにかかわらず衣服のやつれなどがひどい。道元はたずねた『あなたは富貴のご出身。なぜそのように身のまわりが質素なのでしょう』。道如が答えている『僧となればなり』(随聞記五・二)。
禅林ではまた修行僧の食事を担当する役職を典座(てんぞ)という。
盛夏のある真昼どき、典座が仏殿のそばで岩海苔を干していた。背のまがった六十八歳の老僧なので、炎天下の作務(さむ)はあまりにも過酷である。道元は見かねて声をかけた『そのような作務は寺男にお任せになっては』。老僧が答える『他はこれ吾にあらず』。道元は重ねて言った『では、せめて炎天下をお避けになっては』。答が返る『更にいずれの時をか待たん』。岩海苔は炎天下に干してこそ滋味を増す。道元は老僧が即座に返してきた右の説示からも、辦道の何たるかを教わる思いがしたという(典座教訓)。」(p27)
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