和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

家族の「漱石・鴎外」。

2007-08-25 | Weblog
高島俊男著「座右の名文」(文春新書)を読んでしばらくたってから、その切り口に違和感を抱いていたことがあります。鴎外と漱石を取り上げた箇所で、どちらもその家族を登場させているのでした。題名の「座右の名文」から、ズレていたためでしょうか。そこが気になって、ひっかかっておりました。
漠然とそう思っていたわけです。
さて、今日も暑かったですね。ついフラフラと町の本屋さんへと入りました。
よせばいいのに雑誌をパラパラとめくっておりました。
それでもって「中央公論」9月号を買ったわけです。
吉本隆明・内田樹対談「日本の家族を蝕む《第二の敗戦》」とある12ページほどの文に興味を持ちました。そこで、現代の家族を語りながら、しばらくするとこんな箇所があったのです。

「漱石や鴎外のような敏感な人間は、家庭生活でも感度が異常に高いので、周りの人間もつられて感度が上がってしまう。普通の夫婦とはレベルの違う、振幅の激しい感情生活を余儀なくされるということがあるんじゃないかと思います。でもそういう起伏の大きい、偉大スケールの感情生活が、平々凡々で特に腰の据わった世界観も人生観も持っていない普通の人間の、普通の家庭の中に入ってきたら、それは維持するのは難しいと思うんですよ。」(p28)

というようにして、吉本さんは漱石鴎外を登場させて語っておりました。ちなみに、対談の最後は親鸞でしめておりました。
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