和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

書き始め。

2008-06-13 | Weblog
お~い熊さん。この頃、大家さんのお小言を聞いてないねえ。ひとつ、ご機嫌伺いに、いっしょにお小言頂戴しに行かねえかい。そうだなあ。八っあん。小言は好かないが、こうテレビや新聞で、 毎回、首根っこを捕まえられて、振り回されているような文句ばかり聞かされて、こちとら、はなから飽き飽きしていたところだ。ここはひとつ、隠居した大家さんのお小言を正座でもって、いっしょに聞きたくなるってものじゃねえかい。
そうそう。どうも一人じゃ行きづらい。敷居が高い。と思っていたんだ。熊さん。 それにしても、ご隠居は物好きだねえ。あっしらみてえな野郎にも、噛んで含むようにお小言をしてあげようってんだから、ありがてえねえ。しかもだよ、最近は「モノの道理」を語ろうってんだ。同時代長屋の大家さんも酔狂だねえ。 そんな酔狂を聞きに行こうってんだから、八っあん。あんたも、物好きだねえ。

と、二人笑いながら、大家さんの家にむかう。

ありがたいことには、このご時世、大家さんのお小言が、ちゃんと本なっている。えっ。何ですって。お小言の内容をすこし話しちゃくれねえかい。ですって。ハハハ。そいつは、野暮ってもんですよ。旦那。
でもね。旦那。すこしぐらいなら、よござんす。
なあに、ちょっとですよ。ちょっと。

ということで、谷沢永一著「モノの道理」の、あとがき。
そのはじまりはこうでした。

「君は今なにかを考えている、まずそれから書き始めたらよい、とヘンリー・ミラーが記したと伝えられる。」

あとがきの中頃には、こうあります。

「いつの時代においても然りであろうけれど、特に昨今のわが国における表層的の風潮には、次第に固まってきた空虚な建前と人心の実際との乖離が甚だしすぎる。その原因はどなたもが内心に受けとめているであろうように、報道媒体(メディア)の不思議な偏向にあるとしか思えない。その顕著な趨勢が一斉にそろい踏みとなっているのは壮観である。見渡して較べて楽しむ興の削がれるのにはどなたにしろ不満であろう。この均一性に対する反発の声が大きくならないところに昨今の病弊がある。・・・」
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石川忠雄。

2008-06-13 | Weblog
谷沢永一著「モノの道理」(講談社インターナショナル)に、名前で登場しており、論旨にそった具体例で、印象鮮やかでした。その引用。


「たとえば、慶応義塾の塾長を16年間もつとめて先ごろ無くなった石川忠雄という人の場合は、どうも行動を抑制していたとは思えません。彼は『中国共産党史研究』『現代中国の諸問題』という本を書いて平成12年(2000年)に文化勲章をもらっておりますが、実を言えば、これがどうしようもない本なのです。私は上に挙げた二冊の本を両方とも読みましたが、最初から最後まで中国共産党の言いなり、北京政府の受け売り、です。チャイナの【大本営発表】を鵜呑みにして鸚鵡返しするだけ。ただひたすら北京のご機嫌をとりまくっている本なのです。
①チャイナのチベット侵略については『統一の完成』と書いている。チャイニーズの多民族侵略を祝賀しているのです。
②百家争鳴運動と呼ばれた自国民粛清についても、『成功』と讃えるばかりで、批判しない。
③『民主集中制』という独裁政治を恭しく肯定する。
④そうかと思えば、農業集団化は『順調に進行した』と断言して、その間の犠牲者にはいっさい触れない。
⑤悪名高き文化大革命についても、社会主義建設に『必要だった』と是認する・・・。
チャイナ讃美の阿ホ陀羅経は枚挙に遑ありません。しかも、その論拠というのが、中国共産党の公開した資料だけ。それでいながら、己の主張は『一応妥当な見解とみて差支えないように思われるのである』と臆面もなく言い募る。終始一貫現代チャイナに阿諛追従した、まことにもってデタラメな本です。私に言わせれば無意味な紙くずにすぎない。どうしてこんな杜撰な本を書いた男が文化勲章をもらうのか。私にはそれが疑問でした。・・・」(p169~170)

私はこれで、石川忠雄氏の本を読まないわけですが。
これに、反対意見がございましたら、コメントどうぞ。
参考意見とさせていただきたいのでした。


つけ加えます。
谷沢永一・渡部昇一著「上に立つ者の心得・『貞観政要』に学ぶ」(到知出版社)の第五章に「・・どんな君主であっても、諫言を呈する家臣に従えば聖なる君主になれるものです」という箇所があります(p154)。
そこを引用。

【谷沢】本当のリーダーは専門家の言うことをよく聴きますよ。ただし、その専門家というのにもピンからキリがあるから、本物の専門家であるかどうかを見定めなければならない。その判断の基準は、実績があるかどうかでしょう。たとえばエコノミストならば、予言をして当たったことがあるかどうかを見ればいいわけです。
【渡部】そのためには現場をよく知っていなければならないわけですね。いくら頭が良くても、現場体験のない人たちだけで考えていると誤ることになりかねません。
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モノの道理。

2008-06-13 | Weblog
谷沢永一著「モノの道理」(講談社インターナショナル)にこんな箇所。

「私は若いときから論文や評論、エッセイを書きつづけてきましたが。文章というものも孜々営々(ししえいえい)と書きつづけなければモノにはなりません。五十歳になってから急に本を書こうと思い立ったとしても、そんなことはまったくの無理。書けやしません。・・・・ごく簡単な例を挙げておけば――モノを書いたことのない人は日本語の正書法とか語彙の統一といった強迫観念にとらわれてしまうから、『その後彼は出て行った』というような文章を書いてしまいます。しかしこれでは『後』と『彼』が密着して読みにくい。だったら『そのあと彼は出て行った』と書けばいいのです。何でもない文章ですが、こうした揺れ動く表記法を体得するにも持続・継続が必要なのです。」(p119~200)
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