最初は、山村修著「狐が選んだ入門書」の紹介本を読もうと思ったのです。
それが、いつのまにか、窪田空穂全集を買うことにして。
いまは、ドナルド・キーン著「明治天皇」を古本で買ったのでした。
つまり、どれもこれも気分屋で、食い散らかしタイプの積読でして。
こりゃ、簡単には直らない癖でしょうから、と思うことにして。
肝心の、読書興味の分かれ目には、とにかくも目印を立てて、
気分の、交差点での踏み外すポイントに矢印をつけておこうと。
あとで、どこで逸れていったか、もどりなおすよすがにと。
さてと、ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)です。
そこに、こんな箇所がありました。
「美子皇后は後に昭憲皇太后の名で知られることになります。明治天皇との間に子供は出来ませんでしたが、
国民から広く慕われる存在となったのです。次の歌は、華族女学校に皇后が賜った歌二首のうち、一首の冒頭です。
金剛石も みがかずば
珠のひかりは そはざらむ
人もまなびて のちにこそ
まことの徳は あらはるれ
歌二首には後に旋律がつけられて、華族女学校の校歌となりました。
皇后の歌集はごくわずかしかなく、もちろん全集のようなものもない。
彼女の詠んだ歌はとても優れているので本になってもいい、
いやむしろ本にすべきだと思います。
彼女には文学的な才能もあった。
どうして今まで無視されているのか、私にはわかりません。」(p46~47)
ネット上の検索すると、昭和憲皇太后の歌集が、簡単に読めるのでした。
そこに「明治9年2月東京女子師範学校に下したまへる」という歌があります。
みがかずば玉も鏡も何かせむ学の道もかくこそありけれ
ところで、今年、私の地元の高校の合併がありました。一高と二高とが合併。二高は南高と呼ばれており、こちらは女子高でした。合併にまにあわせるようにして「創立百年史」が出てまして、うれしいことに近所の白井さんから、その御本をいただいちゃいました。ありがたい。そこに高等女学校の校歌制定が大正五年なのだと書いてあります。「作詞は万里小路通房(までのこうじみちふさ)で・・作詞者の万里小路は嘉永元年(1848)五月に京都の公家に生まれ明治維新の戊辰戦争に従軍した。宮内省侍従や貴族院議員を歴任した後、明治31年(1898)三月北条町に転住した。」(p14)とあります。その安房高等女学校校歌は、こうです。
朝な夕なに打ち向ふ 鏡が浦に照し見て
誠の徳を磨けよと この学び舎はたてられぬ
西にそびゆる富士の嶺ぞ 高き心の姿なる
沖の島根の老松ぞ 清き操のしるしなる
栄ゆる御代の教へ草 朝な夕なに手につみて
誠の道を進みつつ たのしく学べ少女子よ
「安房高等女学校校歌の制定経過については、『校友会雑誌』第二号に『先づ東京、大阪、京都、仙台、福島等の主なる高等女学校より校歌を乞ひ受け之を参考して歌詞の草案を作り、要旨の大体を具して其作歌を万里小路伯爵に懇願したるに快諾を与へられ、大正5年5月に至り作歌して附与せられぬ。是に於て直ちに作曲を東京音楽学校教官弘田竜太郎先生に乞ひしに、7月上旬に至り曲譜を附して返送せられたり』と記載されている。」(p16)
もう一度、昭憲皇太后の唱歌「金剛石」を、あらてめて引用しておきましょう。
金剛石も みがかずば
珠のひかりは そはざらむ
人もまなびて のちにこそ
まことの徳は あらはるれ
時計のはりの たえまなく
めぐるがごとく 時のまの
日かげをしみて はげみなば
いかなるわざか ならざらむ
ちなみに、昭憲皇太后は、御唱歌をもう一篇つくられております。
「唱歌二篇は明治23年華族女学校へ賜へるなり」とあります。
そのもう一方の唱歌「水は器」も、ここに引用しておきます。
水はうつはに したがひて
そのさまさまに なりぬなり
人はまじはる 友により
よきにあしきに うつるなり
おのれにまさる よき友を
えらびもとめて もろともに
こころの駒に むちうちて
学びの道に すすめかし
それが、いつのまにか、窪田空穂全集を買うことにして。
いまは、ドナルド・キーン著「明治天皇」を古本で買ったのでした。
つまり、どれもこれも気分屋で、食い散らかしタイプの積読でして。
こりゃ、簡単には直らない癖でしょうから、と思うことにして。
肝心の、読書興味の分かれ目には、とにかくも目印を立てて、
気分の、交差点での踏み外すポイントに矢印をつけておこうと。
あとで、どこで逸れていったか、もどりなおすよすがにと。
さてと、ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)です。
そこに、こんな箇所がありました。
「美子皇后は後に昭憲皇太后の名で知られることになります。明治天皇との間に子供は出来ませんでしたが、
国民から広く慕われる存在となったのです。次の歌は、華族女学校に皇后が賜った歌二首のうち、一首の冒頭です。
金剛石も みがかずば
珠のひかりは そはざらむ
人もまなびて のちにこそ
まことの徳は あらはるれ
歌二首には後に旋律がつけられて、華族女学校の校歌となりました。
皇后の歌集はごくわずかしかなく、もちろん全集のようなものもない。
彼女の詠んだ歌はとても優れているので本になってもいい、
いやむしろ本にすべきだと思います。
彼女には文学的な才能もあった。
どうして今まで無視されているのか、私にはわかりません。」(p46~47)
ネット上の検索すると、昭和憲皇太后の歌集が、簡単に読めるのでした。
そこに「明治9年2月東京女子師範学校に下したまへる」という歌があります。
みがかずば玉も鏡も何かせむ学の道もかくこそありけれ
ところで、今年、私の地元の高校の合併がありました。一高と二高とが合併。二高は南高と呼ばれており、こちらは女子高でした。合併にまにあわせるようにして「創立百年史」が出てまして、うれしいことに近所の白井さんから、その御本をいただいちゃいました。ありがたい。そこに高等女学校の校歌制定が大正五年なのだと書いてあります。「作詞は万里小路通房(までのこうじみちふさ)で・・作詞者の万里小路は嘉永元年(1848)五月に京都の公家に生まれ明治維新の戊辰戦争に従軍した。宮内省侍従や貴族院議員を歴任した後、明治31年(1898)三月北条町に転住した。」(p14)とあります。その安房高等女学校校歌は、こうです。
朝な夕なに打ち向ふ 鏡が浦に照し見て
誠の徳を磨けよと この学び舎はたてられぬ
西にそびゆる富士の嶺ぞ 高き心の姿なる
沖の島根の老松ぞ 清き操のしるしなる
栄ゆる御代の教へ草 朝な夕なに手につみて
誠の道を進みつつ たのしく学べ少女子よ
「安房高等女学校校歌の制定経過については、『校友会雑誌』第二号に『先づ東京、大阪、京都、仙台、福島等の主なる高等女学校より校歌を乞ひ受け之を参考して歌詞の草案を作り、要旨の大体を具して其作歌を万里小路伯爵に懇願したるに快諾を与へられ、大正5年5月に至り作歌して附与せられぬ。是に於て直ちに作曲を東京音楽学校教官弘田竜太郎先生に乞ひしに、7月上旬に至り曲譜を附して返送せられたり』と記載されている。」(p16)
もう一度、昭憲皇太后の唱歌「金剛石」を、あらてめて引用しておきましょう。
金剛石も みがかずば
珠のひかりは そはざらむ
人もまなびて のちにこそ
まことの徳は あらはるれ
時計のはりの たえまなく
めぐるがごとく 時のまの
日かげをしみて はげみなば
いかなるわざか ならざらむ
ちなみに、昭憲皇太后は、御唱歌をもう一篇つくられております。
「唱歌二篇は明治23年華族女学校へ賜へるなり」とあります。
そのもう一方の唱歌「水は器」も、ここに引用しておきます。
水はうつはに したがひて
そのさまさまに なりぬなり
人はまじはる 友により
よきにあしきに うつるなり
おのれにまさる よき友を
えらびもとめて もろともに
こころの駒に むちうちて
学びの道に すすめかし