文化出版局から出ている「手をめぐる四百字」。
その帯には「五十人の肉筆原稿を読もう!」とあります。
そういえば、夏目漱石の「直筆で読む『坊っちゃん』」(集英社新書ヴィジュアル版)で、原稿用紙の升目にきちんと納まっている漱石の文字を読んだことがあります。この「手をめぐる四百字」をひらくと、達筆であったり、無骨な文字であったり、絵画じゃなかろうかと思う文字だったりと、はなから四百字の原稿の言葉をおうよりも、その文字に見取れながら、ぼんやりと、自分の連想に身をまかす楽しみにひたれるのでした。それに言葉の内容を、たどるのも疲れそうな達筆文字もあります。
私は、ドナルド・キーン著「明治天皇」を読もうと思っているのです(何でこう書くかというと、宣言すると、すこしは読むことになるかなという淡い期待があるからです)。それで、ひとつ明治天皇について
ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)の第一章に(p18)こうありました。
「明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。自信がなかったためかどうかわかりません。短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。それゆえ、歌稿は一つも残っていないでしょう。伝記を書こうとする身には大変困ります。」
「明治天皇御集・昭憲皇太后御集」というのを開いていたら、明治天皇の御歌の中に、こうありました。
うるはしくかきもかかずも文字はただ読みやすくこそあらまほしけれ
手ならひをものうきことに思ひつるをさな心をいまくゆるかな
ものかかむ暇なければすらせたる硯の墨もそのままにして
さてっと。「手をめぐる四百字」は縦書きの原稿用紙に、原稿が書かれております。思い浮かんだのは小渕暁子編「父が読めなかった手紙」(扶桑社)でした。
小渕恵三元首相が、病床にいる時にお見舞いの手紙をもらったのを写真でそのままに手紙を紹介しております。小学生たちの手紙もまじる一冊なのです。
「手をめぐる四百字」は五十人全員が縦書きです。
けれども小渕首相へのお見舞いの手紙は、縦書き横書きがごっちゃになっておりました。おそらく正式には縦書きなのでしょう。改まった原稿を書こうとすると縦書きになる。けれど、そのうちに横書きになるかもしれませんね。
二冊の本をひらくと、私たちは、縦書きと横書きとの、ちょうど境目に暮らしているような塩梅じゃないかと、あらためて現在の立ち位置を思い浮かべるのでした。
たとえば、広岡勲著「こんな時代だからこそ心にとめておきたい55のことがら」(アーティストハウス)や、清水義範著「大人のための文章教室」(講談社現代新書)を思い浮かべるのですが、清水さんはこう書いております。
「そんなわけで、この文章教室で最初に導き出される文章のコツは、心をこめた文章は手書きにすべし、である。」(p19)
「何らかの組織から、会員全員に届けられる報告文書などは、ワープロ文であることが多いが、それは構わないと思う。あれは手紙というよりは、通信文、といった性格のものであろう。しかし、人を動かしたい手紙ならば、手で書くべきである。ここ、重要なところである。ひとは文章を、他者に何かを伝えるために書くのである。そして、何かを伝えるとは、事情を了解してもらえばそれでいい、ということではない。こちらの情報を正しく伝達されることはまず第一の目的だが、それだけではなく、相手の同意、同感させることが文章の二番目の目的である。そして、相手をこちらの希望するように動かすのが、文章の究極の目的なのだ。」
そんなわけで、私が、といわないまでも、あなたが、心をこめた手書きの文章をかこうとした場合。そのためにですね。一度「手をめぐる四百字」の覗いておいてもソンはなさそうですョ。
と、まあ。それだけですけれどね。一度見ればそれで十分という気もします。
けれども、これだけは言えそうです。ペン習字のような正式の文字を規範にして、自分の文字を書くのが億劫な方にとっては、こういう文字もありなんだ。と、少しは自分なりの字を書くのがメンドクサクなくなる効用がありそうです。
その帯には「五十人の肉筆原稿を読もう!」とあります。
そういえば、夏目漱石の「直筆で読む『坊っちゃん』」(集英社新書ヴィジュアル版)で、原稿用紙の升目にきちんと納まっている漱石の文字を読んだことがあります。この「手をめぐる四百字」をひらくと、達筆であったり、無骨な文字であったり、絵画じゃなかろうかと思う文字だったりと、はなから四百字の原稿の言葉をおうよりも、その文字に見取れながら、ぼんやりと、自分の連想に身をまかす楽しみにひたれるのでした。それに言葉の内容を、たどるのも疲れそうな達筆文字もあります。
私は、ドナルド・キーン著「明治天皇」を読もうと思っているのです(何でこう書くかというと、宣言すると、すこしは読むことになるかなという淡い期待があるからです)。それで、ひとつ明治天皇について
ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)の第一章に(p18)こうありました。
「明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。自信がなかったためかどうかわかりません。短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。それゆえ、歌稿は一つも残っていないでしょう。伝記を書こうとする身には大変困ります。」
「明治天皇御集・昭憲皇太后御集」というのを開いていたら、明治天皇の御歌の中に、こうありました。
うるはしくかきもかかずも文字はただ読みやすくこそあらまほしけれ
手ならひをものうきことに思ひつるをさな心をいまくゆるかな
ものかかむ暇なければすらせたる硯の墨もそのままにして
さてっと。「手をめぐる四百字」は縦書きの原稿用紙に、原稿が書かれております。思い浮かんだのは小渕暁子編「父が読めなかった手紙」(扶桑社)でした。
小渕恵三元首相が、病床にいる時にお見舞いの手紙をもらったのを写真でそのままに手紙を紹介しております。小学生たちの手紙もまじる一冊なのです。
「手をめぐる四百字」は五十人全員が縦書きです。
けれども小渕首相へのお見舞いの手紙は、縦書き横書きがごっちゃになっておりました。おそらく正式には縦書きなのでしょう。改まった原稿を書こうとすると縦書きになる。けれど、そのうちに横書きになるかもしれませんね。
二冊の本をひらくと、私たちは、縦書きと横書きとの、ちょうど境目に暮らしているような塩梅じゃないかと、あらためて現在の立ち位置を思い浮かべるのでした。
たとえば、広岡勲著「こんな時代だからこそ心にとめておきたい55のことがら」(アーティストハウス)や、清水義範著「大人のための文章教室」(講談社現代新書)を思い浮かべるのですが、清水さんはこう書いております。
「そんなわけで、この文章教室で最初に導き出される文章のコツは、心をこめた文章は手書きにすべし、である。」(p19)
「何らかの組織から、会員全員に届けられる報告文書などは、ワープロ文であることが多いが、それは構わないと思う。あれは手紙というよりは、通信文、といった性格のものであろう。しかし、人を動かしたい手紙ならば、手で書くべきである。ここ、重要なところである。ひとは文章を、他者に何かを伝えるために書くのである。そして、何かを伝えるとは、事情を了解してもらえばそれでいい、ということではない。こちらの情報を正しく伝達されることはまず第一の目的だが、それだけではなく、相手の同意、同感させることが文章の二番目の目的である。そして、相手をこちらの希望するように動かすのが、文章の究極の目的なのだ。」
そんなわけで、私が、といわないまでも、あなたが、心をこめた手書きの文章をかこうとした場合。そのためにですね。一度「手をめぐる四百字」の覗いておいてもソンはなさそうですョ。
と、まあ。それだけですけれどね。一度見ればそれで十分という気もします。
けれども、これだけは言えそうです。ペン習字のような正式の文字を規範にして、自分の文字を書くのが億劫な方にとっては、こういう文字もありなんだ。と、少しは自分なりの字を書くのがメンドクサクなくなる効用がありそうです。