和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

命日を祝う?

2008-06-16 | Weblog
渡部昇一・谷沢永一著「上に立つ者の心得 『貞観政要」に学ぶ」を読んでのあれこれの備忘録。

太宗ならではの傑作な話として、紹介されているエピソードがありました(p175)。

【谷沢】・・貞観17年、太宗が周りの者にこう言ったというんです。・・・誕生日というのは喜び楽しむ日ではなくて、むしろ自分を生んでくれた母の苦しみを静かに思いめぐらすべき日であると言っているわけです。・・これは僕は傑作だと思いますね。こういう皇帝はちょっと例がないと思う。
【渡部】東西に例がないでしょうな。だけども、いい独創ですね。
【谷沢】ええ、実に清らかな独創です。

ここから結びつく発想が私には刺激的でした。

【渡部】これは大変なことですな。しかし考えてみると、日本では誕生日を祝わないで命日ばかり祝っていたんじゃないですか?
【谷沢】あぁ、そうですね。
【渡部】私の子供の頃に誕生日という観念はなかったですね。むしろ、今日はお祖母さんが死んだ日、今日はお祖父さんが死んだ日と、命日ばかりでした。そのほうが太宗の感覚には合いますな(笑)・・・誕生日を祝わないという日本の習慣がどこから来たのかわかりませんけれど、みんな亡くなった日を偲んでいたというのは、どうしてでしょうね?・・・・


この誕生日を、まるで逆にでもしたような命日を祝うという発想がどこからきたのか? ・・・というよりも、そこで私が連想したのは将棋のことでした。将棋には持駒の使用ということがあります。相手からとった駒を、こちらで使うのでした。木村義徳氏は「日本将棋は外国の将棋にくらべてきわめて特異である。まず持駒使用がほかになく、最大の特長であることに異論はないと思う」(「日本文化としての将棋」三元社)

また対談にもどります。

【谷沢】太宗が偉いのは、自分の反対派であった人物を許して、逆に諌議大夫に取り上げている点です。
【渡部】魏徴(ぎちょう)ですね。この人は太宗が殺した皇太子ーー自分の兄ーーの家来だった。
【谷沢】そうです。太宗が李世民(りせいみん)と名乗っていた頃、皇太子であった兄の李建成と、弟の李元吉を殺すわけですね。いわゆる「玄武門の変」です。これは李世民の人望に危機感を抱いた二人が結託して李世民を亡きものにしようと謀ったのがそもそもの始まりなんですが・・・結局、李世民は皇太子になって、お父さんの高祖から位を譲り受け、確か27歳で即位した太宗になります。それから24年間の在位中、太宗は兄を殺したという決定的な負い目を背負い続けた。それを帳消しにするために、太宗は名君たらざるを得なかったとも言えるでしょう。・・・(p41~ )

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