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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あれは何者だ。

2009-05-26 | 幸田文
山本夏彦対談集「浮き世のことは笑うよりほかなし」(講談社)での
藤原正彦氏との対談のなかで、山本氏はこう語っておりました。

「明治の末頃、長谷川如是閑さんがロンドンにいたころのこと、如是閑さんは大工の家(うち)の出なんです。その時ちょうど万国博覧会があって、長谷川家の出入りの大工が訪ねて来たんです。目に文字のない普通の大工なんですけれど、帰ったあと下宿屋のおかみさんが、あれは何者だって聞くんですって。大工だって言ったらびっくりして、お前の国の大工は皆あんな紳士なのかって。紳士に見えたんでしょうな、風采だっていいわけじゃない。ただ毅然としていたんじゃないですか。」(p244)

ちなみに、この対談は、山本夏彦主宰・工作社刊行の月刊誌『室内』に掲載された対談から選ばれておりました( 夏彦氏は2002年10月に87歳で死去 )。

掲載誌の関連で、対談内容は建築への言及がところどころにあったりします。
それで、大工とかが出てきてたりします。

ここから、私は木へと連想をひろげます。

鶴見俊輔・上坂冬子「対論異色昭和史」(PHP新書)に
ちょっと説明もなく、「樹木のように」と鶴見氏が語っている箇所がありました。

「私は樹木のように成長する思想を信用するんだ。大学出の知識人はだいたいケミカルコンビネーション。そういう人は人間力に支えられていないから駄目という考えです。私と接触がある人では、上坂(冬子)さんにしても佐藤(忠男)さんにしても、樹木のように成長しているものを感じるね。文章を見ればわかる。」(p152)

ここから、幸田文へとつなげたいのです(笑)。

「幸田文対話」(岩波書店)の最初の対談で、父幸田露伴の亡くなる場面を、高田保氏にこう語っておりました。

【幸田】あたくし、一生の中で一番よかったのは、死なれた後の二、三日でした。すうっとして、空っぽになって、宗教的とか何とかというよりも、自分が木とか草とか虫とかと同じものになって、その時にいくらか謙遜になれたかと思っているんですけれど・・・。死ぬ前後ですから、あの時ぐらいゴタゴタしてる時ってないんですけど、あの時ぐらい穏やかにいられた時はないんです。その時来ていた人たちに言わせれば、文子さんは凄い馬力だったって・・・。
【高田】木とか草とか虫とかと同じになったから、馬力が出たんですよ。 (p14)


こういう幸田文さんにとって、奈良・法輪寺の三重塔再建で宮大工と過ごした時間はどのようなものだったのだろうと、私は想像を逞しくするのです。

ところで、長谷川如是閑のロンドン下宿のおかみさん。
そのひとの言葉を、もう一度思いうかべるのです。
「あれは何者だって聞くんですって。大工だって言ったらびっくりして・・・」。
こういう驚きというのは、
文章にもあるものでしょうか。
それが文章にもあるとすると、いったいどのような時なのか?

あるいは、こんな表現になるのじゃないか。
と思える「解説」を篠田一士氏が書いておりました。
そのはじまりの箇所。

「幸田文の作品を読んで、はじめにだれしも経験するのは、日本語がこんな美しいものだったのかというおどろきである。美しいといっては多少そらぞらしくきこえる。言葉のひとつひとつが、しかとした玉のごとき物体となって、読者の掌中のなかでずっしりとした重さを感じさせるといった方が、まだしも正確な表現になるだろう。玉のまどやかな触感――それははじめ冷やかではあるが、しばらくすると、掌のあたたかみを吸収して、情感にもにたぬくもりを逆に放射する。
こうした日本語の怪しい肉感性をもつ文学を、誇張でなく、寡聞にしてぼくは外に知らないのである。・・・・・
幸田文の文学には自然主義→私小説の陰画はまったく認められない。ともかくこれは今日の日本の文学者の場合稀有なことであり、また、この作家にはじめて接した読者に襲いかかるおどろきの一端を説明する文学的事実でもあろう。」(p158.「KAWADE夢ムック 文藝別冊・幸田文 没後10年」)

うん。あらためて、
幸田文とは、あれは何者だ。
コメント
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