和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

馬鹿なアホな。

2009-05-05 | 幸田文
桑原武夫と幸田文とは、ともに1904年生まれなのですね。
ということで、お二人を結びつけて見たくなりました。
ここでは、上方弁と東京っ子言葉という視点で。

まずは、桑原武夫・司馬遼太郎対談から
「『人工日本語』の功罪について」と題された対談で、
司馬遼太郎は、こう語っておりました。

「・・いまの発言は、わたしが多年桑原先生を観察していての結論なのです(笑)。
大変に即物的で恐れいりますが、先生は問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。が、問題が非常に微妙なところに来たり、ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・・。」

これに対して、私は、村松友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)の
第九章「語り口と文体」のおわりの方にある言葉を、重ねてみたいのです。


「幸田文が文机の前に坐り、原稿用紙の上を走らせている鉛筆を止め、ふと宙をにらんでいる貌・・・それは、ひとつの文章の流れの中に書き表すべき、次の言葉を宙から引っぱり出そうとしている貌だ。あれこれ思い浮かぶ言葉は、いずれも的の芯を射ていないような気がする。幸田文はその的の芯を射る言葉を、じっと待って、時の経過を忘れる人ではなさそうだ。そんなとき、幸田文はえい! と気合をかけて、もうひとつの抽出(ひきだし)を開けその中にうごめく江戸語の余韻をもつ東京っ子言葉のひとつをつまみ出す。そして空白にそれをポンと置いてみる。そうやってから、前後の文章を整え直す。そのようにして、幸田文流の文章と喋り言葉の結合というスタイルが紡ぎ出されていったのではなかろうか。・・・・」(p193~194)


さてっと、最後は桑原武夫氏に登場ねがいましょう。
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)には、各対談のはじめに、桑原氏による簡単なコメントが付けてあるのでした。先に引用した司馬さんとの対談には、どういうコメントがはいっていたか。それを引用しておきます。

「自然言語から文明言語に移るときに失われてしまうもののあることは否定できないが、この移行は歴史的に不可避なものである。そのさい混乱を少なくし能率をあげるために、人工的規制を加えることが多くの滑稽さを生むことは事実である。文学者ないし文筆にたずさわる者の任務は、機能化されたことばの組合せの中に、人間自然の美しさをどのようにして生かすかを工夫するところにある。」

う~ん。これだけじゃ、あまりにそっけないかなあ。
もうすこし、司馬さんの対談中の言葉を引用してみます。


「・・まあ、標準語で話すと感情のディテールが表現できない。ですから標準語で話をする人が、そらぞらしく見えてしょうない(笑)。あの人はああいうことをいってるが、嘘じゃないか(笑)。東京にも下町言葉というちゃんとした感情表現力のあることばがありますが、新標準語一点張りで生活をしている場合、問題が起きますね。
話し言葉は自分の感情のニュアンスを表わすべきものなのに、標準語では論理性だけが厳しい。ですから、生きるとか死ぬとかの問題に直面すると死ぬほうを選ばざるを得ない。生きるということは、非常に猥雑な現実との妥協ですし、そして猥雑な現実のほうが、人生にとって大事だし厳然たるリアリティをふくんでいて、大切だろうと思うのですが、しかし純理論的に生きるか死ぬかをつきつめた場合、妙なことに死ぬほうが正しいということになる。【そんなアホなこと】とはおもわない。生か死かを土語、例えば東北弁で考えていれば、論理的にはアイマイですが、感情的には『女房子がいるべしや』とかなんかで済んでしまう。なにが済むのかわからないけど(笑)。」

【そんなアホなこと】といえば、
最近出た平凡社の「幸田文しつけ帖」「幸田文台所帖」を読んでいると
(これは、小説よりも随筆を中心に編まれたアンソロジーとなっております)、
露伴と文との親子のやりとりが随筆中に再現されているのでした。さすがに
「そんなアホな」いうのは出てきませんが、「馬鹿」というのは、もう潤滑油のようにして出て来る言葉なのでした。

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震災と房総。

2009-05-05 | 地震
関東大震災について、房総和田町の状況はどうだったのか?安田耕一氏が自費出版された本に、その様子がでておりました。ちなみに、安田氏は明治35年12月に和田町和田で生れております。お医者さんで、昭和3年慈恵会医科大学を卒業されております。その後、従軍し、戦後は目黒区にて医院を開業。

さて、自費出版された本の題名は「舎久と道久保」(昭和51年)。貴重な、関東大震災の房総での様子に触れられているので、参考になることも多々あろうかと思います。書きぶりも、大正時代の書き言葉と違い、さばけた文の運びで、震災の状況を知ることができます。
では、以下引用していきましょう。

「入学して次の夏休みに房州に帰って震災にあった。東京へ帰る人達とお別れのお昼を食べようといって、鶏なぞつぶしてコンロに鍋をかけはじめた時に、上下動の凄まじいのが来た。・・楽しさも平穏に進んでいた時、突然大地の変動に見舞われたからみんな驚いて顔色がなかった。余震の大きいのがくる度に、みんな世の中の終末かと思って蒼ざめていた。ただ一途に桑原々々を唱える人もあれば、腰を抜かして全然動けない人もあった。腰が抜けるとは全く面白いもので、驚愕の極、腰がへたへたと床に落ちて、足の運動が無力となって、一過性の麻痺状態となる。こんな二人の女につかまって私は往生した。余震の大揺れが来るたびに天井を見ればうねっていて、何時落ちてくるかと生きた心地がしなかった。

余震が段々弱くなって来たが、何時また大きいのが来るかと家の中には入って寝ることが出来ないから、みんな野外に蚊帳を吊って野宿した。三日間は余震が劇しくて飯もろくに食えなかった。こんな生活が十日間も続いて、漸く余震も薄れて家の中にいられるようになったが、今まで自分の周囲ばかりを気にしていたところへ、全然思いも及ばなかった東京のニュースが入って来た。東京、横浜、鎌倉が惨憺たるものだとの話が伝わって来た。

東京への汽車や電信電話は、全く不通で役に立たなかった。東京へ行くには海路館山湾から東京湾汽船で行くのが唯一のルートであった。当時ラジオもなく新聞も出ていないから情報は入手出来なかったが、震災七日目に息子の安否を気づかって埼玉の熊谷から友人の親父がやって来た。息子の息災を確めて帰っていったが、この父は東京のことなぞあんまり知らなかった。

余震も全然とはいえないが、静かになってから十四日くらいして姉の家のことが心配になったので、友人五人と朝早く、歩いて館山へ一日分の握り飯と白米少量を持って出発した。私の町は地盤がいいので、一、二軒の倒壊家屋があっただけだったが、両隣の村はひどかった。北条町の方へ近づくに従って建っている家が少なくなって来た。北条、館山両町にいたっては全家屋が崩壊して、残っている家は二軒だけだった。道路上には大きい亀裂があって、歩くのに大変だった。和田町から館山湾の桟橋まで約十八粁(キロメートル)あったが、四時間ぐらいで着いて東京行きの切符を買った。・・・・」

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