和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

です。です。

2009-05-12 | 幸田文
文藝別冊「総特集 幸田文 没後10年」にありました。

座談会「東京ことば」 幸田文・石川淳・大野晋・丸谷才一。

そこに、こんな箇所。

【石川】日常露伴先生にはどういう話し方をしていらしたんですか。
【幸田】「だが」はいいませんでした。「です」も嫌いなんです。
「おまえは『です、です』の女か」って、辱められているような感じで・・・。
【大野】「です」と「だが」を使わないと、言葉の終わりはどうなさいました?
【幸田】「おります」「ございます」ですね。
【大野】今日では普通になりましたけれども、
「です」はもともと田舎上りのお侍さんが「でェーす」と伸ばして使ったらしい。
品の悪い言葉だったんですね。むしろ。
【石川】近ごろの女の子は伸ばすじゃないですか。
「でェーす」をやっているじゃないですか(笑)。
【幸田】父にいわせると、「です」の「で」が硬く聞こえる。
ガギグゲゴ、ダヂヅデドを耳立つというので、
「です」というときには飲むようにして。
いい言葉ばかり使ってもおられませんでしょう。

いい言葉というのは、どんな言葉なのか、
そういうのは、聞いてはいたのでしょうが、聞き流していたりします。
ああ、こんな場合というのがある。
そんな例がありました。
徳岡孝夫著【「民主主義」を疑え!】(新潮社)をめくっていたら、
そこに、こんな箇所。

「私が台湾に何となく好意を抱くのは、茶碗屋のオバサンのせいである。・・・
60年代後半、バンコクに一軒だけ、日本語を喋る台湾人のオバサンの営む瀬戸物屋があった。妻を連れていった。
女の買い物は品定めに手間がかかる。いろいろオバサンに質問する。そばで聞いていて、私は驚いた。応対するオバサンの日本語が、実に美しいのである。
『あら、それがお気に召しませんようなら、こちらに色違いがございます』などと言っている。店には若い日本人の主婦も来ていたが、あまりにも綺麗な日本語に押され、客の方がハイハイと恐縮している。聞いていて私は『あ、これは昭和二十年の日本語だ』と気付いた。統治終了の時点で、彼女の日本語は凍結している。われわれも昭和二十年には、こういう美しい言葉を喋っていたのだ。家庭では、夫人と日本語で話しているという李登輝前総統も、折目正しい日本語を遣うという。」(p121)
コメント
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