幸田文著「月の塵」(講談社)に
「遺品のあるなし」という4ページほどの短文がありました。
最後の方に、「年譜は、人が見るのと家族がよむのとではずいぶん違う・・」
とあります。露伴について、幸田文・青木玉の関連の文を読んだり、その対談集を読んでいたりすると、いつのまにか、知らず知らずのうちに、家族の側からの、目線になっていたりします。随筆を読んでいると、しばしば、そんな感じになります。
ところで、昭和13年。
幸田文が玉をつれて、実家へ戻り、5月に離婚をしております。
幸田露伴の「幻談」が掲載されたのが、その昭和13年9月となっておりました。
ここは、岩波文庫の川村二郎氏の解説から、「幻談」のあらすじを引用してみましょう。
「話としては実際、単純きわまりないともすこぶるたわいないともいえる体のものである。釣好きの侍が海釣に出かけると、水の中から竿のようなものが出たり引込んだりする。舟を近づけてみると、溺死者が釣竿を握っているのだと分かる。その竿がいかにも見事なので、死者の手からもぎ放して家へ持って帰る。次の日この竿を持ってまた出かけると、昨日と同じように、海の中から竿が出たり引込んだりする。そこで念仏を唱えながら持ってきた竿を海へ返してしまう。」
この語りについて、川村二郎氏は、丁寧に指摘してゆきます。
「この作の比類なさは、ほかならぬ無内容を、完璧な創作の原理たらしめているところにある。元来この作は口述筆記にもとづいており、終始くつろいだ談話口調で一貫している。・・・時にくつろぎすぎ、くだけすぎの印象を与えることもなくはない。『幻談』の口調は実に自然でなだらかで、いささかも『すぎ』の、過度の印象を与えない。斎藤茂吉はこの文体について、『談は世故にたけた老翁の談であって、これくらい洗練された日本語というものはない』と評している。いかにも高度の洗練。・・・あらゆることに造詣の深かった露伴の趣味の中でも、釣は特別の場所を占めていたと思われる。」
さて、なぜ「幻談」をもってきたかといいますと、
幸田文の「遺品のあるなし」に、「幻談」とはかかわりないのですが、釣竿のことが登場していたのでした。その文のはじまりは、「この春読売新聞から、紅葉子規漱石露伴の四人の展覧会をすると話のあったとき『今年は、ちょうど誕生百年になるので』といわれてまごついた。」とあります。展示の遺品を出してもらいたいという督促のようです。
それが見あたらないことを述べながら、釣竿のことに話題がおよぶのでした。
では、最後にそこを引用しておきます。
「それはたしかに戦争もあったし、焼けもした。だが、それらの品を保存しようとする気さえあれば、まるまる無理だったわけではない。私は買いだしの米かつぎには、よく出掛けていった。が、疎開から東京へ来て、おき放しの家財道具の中から、僅かばかりの父の好きな品を運ぶことはしなかった。それは空襲のおそれや、疲労だったら許せるのだが、そうではなかった。戦争に煽られてふわふわしていた、という以外ない。
その証拠に、疎開先で東京宅の焼失をきいたとき、病床にいた父は私をふり返って、釣竿はもってきていたね、ときいた。私はむかっとして、この際なにもそんな遊び道具のことなどを、と思った。すると父は察したらしくて、おこりもしない代り、話すのもやめて、視力の殆ど弱くなっている目を障子のほうにむけて、みつめていた。このとき、さすがに私は辛くなった。気の毒と申訳なさで困った。・・・」
誕生百年の展覧会の会場には、そういうわけで露伴愛用の釣竿はなかった。
ところで『幻談』の最後は、こうなっておりました。
「竿はもとよりそこにあったが、客は竿を取出して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言って海へかえしてしまった。」
「遺品のあるなし」という4ページほどの短文がありました。
最後の方に、「年譜は、人が見るのと家族がよむのとではずいぶん違う・・」
とあります。露伴について、幸田文・青木玉の関連の文を読んだり、その対談集を読んでいたりすると、いつのまにか、知らず知らずのうちに、家族の側からの、目線になっていたりします。随筆を読んでいると、しばしば、そんな感じになります。
ところで、昭和13年。
幸田文が玉をつれて、実家へ戻り、5月に離婚をしております。
幸田露伴の「幻談」が掲載されたのが、その昭和13年9月となっておりました。
ここは、岩波文庫の川村二郎氏の解説から、「幻談」のあらすじを引用してみましょう。
「話としては実際、単純きわまりないともすこぶるたわいないともいえる体のものである。釣好きの侍が海釣に出かけると、水の中から竿のようなものが出たり引込んだりする。舟を近づけてみると、溺死者が釣竿を握っているのだと分かる。その竿がいかにも見事なので、死者の手からもぎ放して家へ持って帰る。次の日この竿を持ってまた出かけると、昨日と同じように、海の中から竿が出たり引込んだりする。そこで念仏を唱えながら持ってきた竿を海へ返してしまう。」
この語りについて、川村二郎氏は、丁寧に指摘してゆきます。
「この作の比類なさは、ほかならぬ無内容を、完璧な創作の原理たらしめているところにある。元来この作は口述筆記にもとづいており、終始くつろいだ談話口調で一貫している。・・・時にくつろぎすぎ、くだけすぎの印象を与えることもなくはない。『幻談』の口調は実に自然でなだらかで、いささかも『すぎ』の、過度の印象を与えない。斎藤茂吉はこの文体について、『談は世故にたけた老翁の談であって、これくらい洗練された日本語というものはない』と評している。いかにも高度の洗練。・・・あらゆることに造詣の深かった露伴の趣味の中でも、釣は特別の場所を占めていたと思われる。」
さて、なぜ「幻談」をもってきたかといいますと、
幸田文の「遺品のあるなし」に、「幻談」とはかかわりないのですが、釣竿のことが登場していたのでした。その文のはじまりは、「この春読売新聞から、紅葉子規漱石露伴の四人の展覧会をすると話のあったとき『今年は、ちょうど誕生百年になるので』といわれてまごついた。」とあります。展示の遺品を出してもらいたいという督促のようです。
それが見あたらないことを述べながら、釣竿のことに話題がおよぶのでした。
では、最後にそこを引用しておきます。
「それはたしかに戦争もあったし、焼けもした。だが、それらの品を保存しようとする気さえあれば、まるまる無理だったわけではない。私は買いだしの米かつぎには、よく出掛けていった。が、疎開から東京へ来て、おき放しの家財道具の中から、僅かばかりの父の好きな品を運ぶことはしなかった。それは空襲のおそれや、疲労だったら許せるのだが、そうではなかった。戦争に煽られてふわふわしていた、という以外ない。
その証拠に、疎開先で東京宅の焼失をきいたとき、病床にいた父は私をふり返って、釣竿はもってきていたね、ときいた。私はむかっとして、この際なにもそんな遊び道具のことなどを、と思った。すると父は察したらしくて、おこりもしない代り、話すのもやめて、視力の殆ど弱くなっている目を障子のほうにむけて、みつめていた。このとき、さすがに私は辛くなった。気の毒と申訳なさで困った。・・・」
誕生百年の展覧会の会場には、そういうわけで露伴愛用の釣竿はなかった。
ところで『幻談』の最後は、こうなっておりました。
「竿はもとよりそこにあったが、客は竿を取出して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言って海へかえしてしまった。」