外山滋比古著「『人生二毛作』のすすめ」(飛鳥新社)を読んだのです。
外山氏の「思考の整理学」を読んだ方が、いったい外山滋比古氏というのは、どのような方なのだろうと、興味をもたれたとします。そういう方に、現在の外山氏を知ってもらうのに好都合な一冊だと私は思うのです。
なんせ、親しい方とのおしゃべりを活字にされているので、普段の文章からうかがえない様子や姿を垣間見させていただけたりします。たとえば、外山氏の文では、奥様のことなど、まずは出てきませんが、このおしゃべりを活字にした本では、現在の生活のなかでの様子として、ちらりと登場したりするのです。ということで、外山氏の他の本を読まれている方にも、新しい側面を知ることの出来る本となっております。これが、文章とおしゃべりの違いなのかもしれないという外山氏についての興味深い一冊。
さて、本文中に「日本語の論理」について、p26で出てくるのですが、
この本のあとがきにも、こんな箇所がありました。
「・・・四十歳になったのを機に編集をはなれたが、おいそれと学究一筋というわけにもいかず、迷いながら自分の仕事の方向を模索して、あれこれほっつきまわった。そのひとつが『日本語の論理』だった。この本が出ると、さっそく槍玉にあがった。それがつい先ごろまで自分の編集していた雑誌の匿名批評だったからコタえた。匿名氏は、この本の著者は英語の論理も書かないで日本語の論理などにうつつを抜かして、けしからんといった調子だった。
そう言われては率直に引き下がれない。それのどこが悪いか、と居直った。これをきっかけに日本への関心を高め、半ば英文学をすてた。英文学者などにならなくて結構、われはわが道を行くと肚をきめたのである。行きがけの駄賃ではないが、調子にのって大学の英文学の命脈は長くて三十年だとよけいな口をきいて、同学のヒンシュクを買った。それから三十年、各大学が競って英文学の看板をおろしてしまった。いい気味だとは思わないが、いくばくかの感慨がないわけではない。・・・・
読み返してみると、この本はまるでシラフでクダを巻いているような趣きがあり、われながら、恥ずかしい。諸賢の寛容を乞いたてまつる気持である。
この本は、私がしゃべるのを旧知のライター浦野敏裕さんが文章化したものである。話は三回にわたったが、そのつど飛鳥新社社長土井尚道さん、同編集部工藤博海さんが同席、雰囲気を支えてもらった。」
さ~て、それでは、というのでまだ読んでいなかった外山滋比古著「日本語の論理」に手を出したのでした。『雑誌の匿名批評』がけしからんと書いたのが、今では歴史的経緯として興味深く読むことができます。その「けしからん」が現在も続いているかどうかは読んでのお楽しみ。
ところで、私が読後興味深く思ったのは豆腐文でした。
外山滋比古氏の文の最初から、もう豆腐文ではじまっていたのだと、あらためて再確認できた思いでした。ということで、「日本語の論理」に出て来る豆腐について。
ここに引用しておきましょう。
「喩えで言うと、ヨーロッパの言葉は煉瓦のようなもので・・・それに対して日本語は豆腐のようなものである。豆腐を煉瓦のように積み重ねればかならず崩れる。おいしい絹ごしなら、二、三丁重ねてももう崩れてしまう。・・・いろいろ豆腐の建築みたいなことを試みた。しかし、どうもうまく行かない。・・豆腐は豆腐らしく使う必要があるはずである。」(p76~77・中公叢書)
これ以来、ずっと豆腐文で通しておられる外山氏なんだなあと、あらためて思ったのでした。
外山氏の「思考の整理学」を読んだ方が、いったい外山滋比古氏というのは、どのような方なのだろうと、興味をもたれたとします。そういう方に、現在の外山氏を知ってもらうのに好都合な一冊だと私は思うのです。
なんせ、親しい方とのおしゃべりを活字にされているので、普段の文章からうかがえない様子や姿を垣間見させていただけたりします。たとえば、外山氏の文では、奥様のことなど、まずは出てきませんが、このおしゃべりを活字にした本では、現在の生活のなかでの様子として、ちらりと登場したりするのです。ということで、外山氏の他の本を読まれている方にも、新しい側面を知ることの出来る本となっております。これが、文章とおしゃべりの違いなのかもしれないという外山氏についての興味深い一冊。
さて、本文中に「日本語の論理」について、p26で出てくるのですが、
この本のあとがきにも、こんな箇所がありました。
「・・・四十歳になったのを機に編集をはなれたが、おいそれと学究一筋というわけにもいかず、迷いながら自分の仕事の方向を模索して、あれこれほっつきまわった。そのひとつが『日本語の論理』だった。この本が出ると、さっそく槍玉にあがった。それがつい先ごろまで自分の編集していた雑誌の匿名批評だったからコタえた。匿名氏は、この本の著者は英語の論理も書かないで日本語の論理などにうつつを抜かして、けしからんといった調子だった。
そう言われては率直に引き下がれない。それのどこが悪いか、と居直った。これをきっかけに日本への関心を高め、半ば英文学をすてた。英文学者などにならなくて結構、われはわが道を行くと肚をきめたのである。行きがけの駄賃ではないが、調子にのって大学の英文学の命脈は長くて三十年だとよけいな口をきいて、同学のヒンシュクを買った。それから三十年、各大学が競って英文学の看板をおろしてしまった。いい気味だとは思わないが、いくばくかの感慨がないわけではない。・・・・
読み返してみると、この本はまるでシラフでクダを巻いているような趣きがあり、われながら、恥ずかしい。諸賢の寛容を乞いたてまつる気持である。
この本は、私がしゃべるのを旧知のライター浦野敏裕さんが文章化したものである。話は三回にわたったが、そのつど飛鳥新社社長土井尚道さん、同編集部工藤博海さんが同席、雰囲気を支えてもらった。」
さ~て、それでは、というのでまだ読んでいなかった外山滋比古著「日本語の論理」に手を出したのでした。『雑誌の匿名批評』がけしからんと書いたのが、今では歴史的経緯として興味深く読むことができます。その「けしからん」が現在も続いているかどうかは読んでのお楽しみ。
ところで、私が読後興味深く思ったのは豆腐文でした。
外山滋比古氏の文の最初から、もう豆腐文ではじまっていたのだと、あらためて再確認できた思いでした。ということで、「日本語の論理」に出て来る豆腐について。
ここに引用しておきましょう。
「喩えで言うと、ヨーロッパの言葉は煉瓦のようなもので・・・それに対して日本語は豆腐のようなものである。豆腐を煉瓦のように積み重ねればかならず崩れる。おいしい絹ごしなら、二、三丁重ねてももう崩れてしまう。・・・いろいろ豆腐の建築みたいなことを試みた。しかし、どうもうまく行かない。・・豆腐は豆腐らしく使う必要があるはずである。」(p76~77・中公叢書)
これ以来、ずっと豆腐文で通しておられる外山氏なんだなあと、あらためて思ったのでした。