鶴見俊輔の新刊二冊を読んでいて、
そこに前田愛氏が登場する箇所があるのでした。
今日は、そこについて。二冊の両方にそのエピソードが登場しているのです。
ちなみに、ネット検索をすると、まず最初に、前田愛は声優・女優とでてきます(笑)。
まずは、前田愛について
「前田愛(1932~1987)。文芸評論家・国文学者。著書に『樋口一葉の世界』『都市空間のなかの文学』など」とあります。私は未読なのですが、外山滋比古氏との共通するだろうテーマとしては、前田愛著「近代読者の成立」があげられそうです。外山氏には「近代読者論」という本があります。どちらも私は読んでいないので、ここではこれだけ。
さてっと、鶴見俊輔氏の文にこうある。
「いまから二十年以上も前のことですけど」
ということは、もう20年以上前のことがいまだに80歳を過ぎた鶴見氏の感心を引くテーマとしてあるらしいのです。つづけます。
「東京の山の上ホテルで、ばったり前田愛に会った。立ち話の中で、・・・・
漱石に話題を転じて、『漱石はあんなに勉強したけど、結局解けるはずがないんですよ。漱石が解こうとして問題は、I・A・リチャーズのときになって初めて解けたんだ。リチャーズはマリノフスキーを引いているでしょう。マリノフスキーのような文化人類学者が世界各地に出かけていってはじめて、違う文化の中から違う文学の趣味が生まれるプロセスがはっきりしたんだから。そのおかげでリチャーズは文学理論を書くことができた。だから、漱石がいくらジェームズやウォードを読んだって、自分の立てた問題を自分では解けないんだ』というようなことをいってましたね。』」(鶴見俊輔著「言い残しておくこと」p78~81)
これについて、「思い出袋」(岩波新書)には、こうでてくるのでした。
「前田愛と立ち話をした。そのあとすぐ彼がなくなると思わなかったので、すわってゆっくり話をきかなかったのが残念だ。・・・漱石の『文学論』の問題提起には感心するという。あれは、当時、どんなに広く同時代の参考文献を読んだとしても、漱石には解決できなかっただろう。社会学だけでなく、文化人類学の成果を参考にして、I・A・リチャーズ(1893~1979)がはじめて解決の方向に手がかりを見つけた。そう前田愛は言う。たかだか二、三分の会話だったが、心に残った。
リチャーズは、1930年、中国の北京で三人の教授に教えられつつ、2300年前の孟子の心理学を手探りで考えた。その成果を公表したのは、中日戦争の中で米国の大学が中国を支援する目的で開いた一連の講座の一回目だった。1940年のことである。リチャーズの探索は『孟子の悟性』(1964年)で読むことができる。・・・37歳にもなって、遠く離れた中国の漢字の迷路に自分を置くというのは、新しい冒険である。リチャーズは、英国で自分の学生だったW・エンプソンから示唆を得ている。『あいまいの七つの型』(1930年)は、シェークスピアから用例を取って、あいまいな意味の型を例解した本で、あいまいな表現の効果を分析している。このエンプソンも、日本と中国に暮らして、漢字から刺激を受けた。・・・夏目漱石が『文学論』と自作の漢詩によって指さした境涯は、リチャーズの意味論、エンプソンの意味論とに、半世紀を通してなだらかに続いている。」(p41~43)
ここから、外山滋比古著「中年記」(みすず書房)へと引用を重ねます。
「夏目漱石は中学生のときからよく読んだが、『文学論』は大学へ入ってから読む。その構想と思考の方法にはひどく感心した。おそらくこの本が出たとき、世界中でこれに匹敵する文学概論はひとつもなかっただろう。そういうことがわかるのに、その後二十年くらいはかかった。・・」(p24)
では、ここに出てくる『文学論』を外山氏がわかるのは、どういう経路を通じてだったのか。
外山氏の文を追ってみます。
「戦争末期、昭和19年10月に、東京文理科大学英語学英文学科の学生になった。・・・入学して早々、学生控室に掲示が出た。主任教授福原麟太郎先生の名で、新入学生と個人インタヴューを行なうとあって、時間が指定してある。・・・これもあとで想像したことだが、そういう時代にこともあろうに英文科へ入って来た学生たちである。いろいろ悩みもあろう、心細いと思っているものもいよう。経済的に困っているものもあるにちがいない。それとなく相談にのってやろうというのが、個人インタヴューだったのである。親の心子知らず、ではないが、そんな配慮が学生にわかるはずがない。改めて面接試験を受けるのかと、気が重かった。
先生がなにをきかれ、何を話されたかは一切記憶にないが、
『最後に、なにかきいておきたいことはありませんか』
と言われる先生に、とんでもない質問をしてしまった。
『文学というのがよくわかりません。文学って何ですか』
先生はびっくりされたに違いないが、静かに、
『それは大問題で、ひと口には言えないが、いずれ追々にわかってきます』
・・・・・・
福原先生のインタヴューを終えると、その足で、英文研究室の書棚、といっても硝子戸つきの本棚だが、いちばん上のLiterature:Generalという分類の本の背のタイトルをにらんだ。これもそのときはわからなかったが、この図書室には、ケインブリッジ・スクールと呼ばれる学者、批評家の本が実によく集めてあった。山路太郎というかつての助手がケインブリッジ・スクールのことを日本でもっとも早く、もっとも深く知った学究で、その図書選定にも、その造詣がおのずとあらわれたのである。そんなことも知らずに、文学論の本をつぎつぎ読んだ。」
これからが、読み応えがある箇所なのでしょうが、
私はよくわかりませんので、端折っていきます。
「その次にはWilliam Empson:Seven types of Ambiguityが待っていた。従来、表現にとってマイナスであると考えられていた曖昧性を表現美の要と見る画期的な批評で、たちまち世界的に有名になった。これがケインブリッジの英文科卒業論文をもとにしたものであることが学生にはひどく刺激的であった。もうひとつ、エンプソンを身近かに感じることがあった。エンプソンは、この『曖昧の七型』を出版すると、東京文理科大学へ外国人教師としてやってきたのである。さきの山路太郎は親しくその教えを受けた一人である。『和歌とソネットを論ぜよ』といった試験問題を出したという伝説をきいたことがある。・・・・エンプソン以上につよい刺激を受けたのは、I・A・Richards:Practical CriticismとPrinciple Literary Criticism である。文学ということに関してPrinciplesは世界に先がけるものであるが、夏目漱石はその二十年前に、よく似た方法で文学の本質を究明しようとしたことは、はじめてリチャーズを読んだときには気づかなかった。・・・リチャーズはエンプソンの先生である。もとは数学コースにいたエンプソンは英文科へ転じてリチャーズの指導を受けた。エンプソンが卒業を前にして、リチャーズ先生に、自説をのべ、先生が、それはおもしろいと言った。一週間だかして、タイプ原稿を先生のところへもち込み、先達ての論文です、と言った。これが卒業論文になり、すぐ出版されて名著になる。そういうことを、夢のような気持ちで追った。・・」(~p27)
これ以下が系譜として面白いのですが、以下は興味がある方が読まれるとよいと思います。
そこに前田愛氏が登場する箇所があるのでした。
今日は、そこについて。二冊の両方にそのエピソードが登場しているのです。
ちなみに、ネット検索をすると、まず最初に、前田愛は声優・女優とでてきます(笑)。
まずは、前田愛について
「前田愛(1932~1987)。文芸評論家・国文学者。著書に『樋口一葉の世界』『都市空間のなかの文学』など」とあります。私は未読なのですが、外山滋比古氏との共通するだろうテーマとしては、前田愛著「近代読者の成立」があげられそうです。外山氏には「近代読者論」という本があります。どちらも私は読んでいないので、ここではこれだけ。
さてっと、鶴見俊輔氏の文にこうある。
「いまから二十年以上も前のことですけど」
ということは、もう20年以上前のことがいまだに80歳を過ぎた鶴見氏の感心を引くテーマとしてあるらしいのです。つづけます。
「東京の山の上ホテルで、ばったり前田愛に会った。立ち話の中で、・・・・
漱石に話題を転じて、『漱石はあんなに勉強したけど、結局解けるはずがないんですよ。漱石が解こうとして問題は、I・A・リチャーズのときになって初めて解けたんだ。リチャーズはマリノフスキーを引いているでしょう。マリノフスキーのような文化人類学者が世界各地に出かけていってはじめて、違う文化の中から違う文学の趣味が生まれるプロセスがはっきりしたんだから。そのおかげでリチャーズは文学理論を書くことができた。だから、漱石がいくらジェームズやウォードを読んだって、自分の立てた問題を自分では解けないんだ』というようなことをいってましたね。』」(鶴見俊輔著「言い残しておくこと」p78~81)
これについて、「思い出袋」(岩波新書)には、こうでてくるのでした。
「前田愛と立ち話をした。そのあとすぐ彼がなくなると思わなかったので、すわってゆっくり話をきかなかったのが残念だ。・・・漱石の『文学論』の問題提起には感心するという。あれは、当時、どんなに広く同時代の参考文献を読んだとしても、漱石には解決できなかっただろう。社会学だけでなく、文化人類学の成果を参考にして、I・A・リチャーズ(1893~1979)がはじめて解決の方向に手がかりを見つけた。そう前田愛は言う。たかだか二、三分の会話だったが、心に残った。
リチャーズは、1930年、中国の北京で三人の教授に教えられつつ、2300年前の孟子の心理学を手探りで考えた。その成果を公表したのは、中日戦争の中で米国の大学が中国を支援する目的で開いた一連の講座の一回目だった。1940年のことである。リチャーズの探索は『孟子の悟性』(1964年)で読むことができる。・・・37歳にもなって、遠く離れた中国の漢字の迷路に自分を置くというのは、新しい冒険である。リチャーズは、英国で自分の学生だったW・エンプソンから示唆を得ている。『あいまいの七つの型』(1930年)は、シェークスピアから用例を取って、あいまいな意味の型を例解した本で、あいまいな表現の効果を分析している。このエンプソンも、日本と中国に暮らして、漢字から刺激を受けた。・・・夏目漱石が『文学論』と自作の漢詩によって指さした境涯は、リチャーズの意味論、エンプソンの意味論とに、半世紀を通してなだらかに続いている。」(p41~43)
ここから、外山滋比古著「中年記」(みすず書房)へと引用を重ねます。
「夏目漱石は中学生のときからよく読んだが、『文学論』は大学へ入ってから読む。その構想と思考の方法にはひどく感心した。おそらくこの本が出たとき、世界中でこれに匹敵する文学概論はひとつもなかっただろう。そういうことがわかるのに、その後二十年くらいはかかった。・・」(p24)
では、ここに出てくる『文学論』を外山氏がわかるのは、どういう経路を通じてだったのか。
外山氏の文を追ってみます。
「戦争末期、昭和19年10月に、東京文理科大学英語学英文学科の学生になった。・・・入学して早々、学生控室に掲示が出た。主任教授福原麟太郎先生の名で、新入学生と個人インタヴューを行なうとあって、時間が指定してある。・・・これもあとで想像したことだが、そういう時代にこともあろうに英文科へ入って来た学生たちである。いろいろ悩みもあろう、心細いと思っているものもいよう。経済的に困っているものもあるにちがいない。それとなく相談にのってやろうというのが、個人インタヴューだったのである。親の心子知らず、ではないが、そんな配慮が学生にわかるはずがない。改めて面接試験を受けるのかと、気が重かった。
先生がなにをきかれ、何を話されたかは一切記憶にないが、
『最後に、なにかきいておきたいことはありませんか』
と言われる先生に、とんでもない質問をしてしまった。
『文学というのがよくわかりません。文学って何ですか』
先生はびっくりされたに違いないが、静かに、
『それは大問題で、ひと口には言えないが、いずれ追々にわかってきます』
・・・・・・
福原先生のインタヴューを終えると、その足で、英文研究室の書棚、といっても硝子戸つきの本棚だが、いちばん上のLiterature:Generalという分類の本の背のタイトルをにらんだ。これもそのときはわからなかったが、この図書室には、ケインブリッジ・スクールと呼ばれる学者、批評家の本が実によく集めてあった。山路太郎というかつての助手がケインブリッジ・スクールのことを日本でもっとも早く、もっとも深く知った学究で、その図書選定にも、その造詣がおのずとあらわれたのである。そんなことも知らずに、文学論の本をつぎつぎ読んだ。」
これからが、読み応えがある箇所なのでしょうが、
私はよくわかりませんので、端折っていきます。
「その次にはWilliam Empson:Seven types of Ambiguityが待っていた。従来、表現にとってマイナスであると考えられていた曖昧性を表現美の要と見る画期的な批評で、たちまち世界的に有名になった。これがケインブリッジの英文科卒業論文をもとにしたものであることが学生にはひどく刺激的であった。もうひとつ、エンプソンを身近かに感じることがあった。エンプソンは、この『曖昧の七型』を出版すると、東京文理科大学へ外国人教師としてやってきたのである。さきの山路太郎は親しくその教えを受けた一人である。『和歌とソネットを論ぜよ』といった試験問題を出したという伝説をきいたことがある。・・・・エンプソン以上につよい刺激を受けたのは、I・A・Richards:Practical CriticismとPrinciple Literary Criticism である。文学ということに関してPrinciplesは世界に先がけるものであるが、夏目漱石はその二十年前に、よく似た方法で文学の本質を究明しようとしたことは、はじめてリチャーズを読んだときには気づかなかった。・・・リチャーズはエンプソンの先生である。もとは数学コースにいたエンプソンは英文科へ転じてリチャーズの指導を受けた。エンプソンが卒業を前にして、リチャーズ先生に、自説をのべ、先生が、それはおもしろいと言った。一週間だかして、タイプ原稿を先生のところへもち込み、先達ての論文です、と言った。これが卒業論文になり、すぐ出版されて名著になる。そういうことを、夢のような気持ちで追った。・・」(~p27)
これ以下が系譜として面白いのですが、以下は興味がある方が読まれるとよいと思います。