外山滋比古著「日本語の論理」(中公叢書)を読んで、
ああ、ここに外山氏のはじまりがあるのだろうなあ。
外山氏の文章のはじまり、はじまり。という感があります。
たとえば、
「思想の『体系』もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々と記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いて不朽のものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却のなかへ棄てさる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。」(p28)
などというのは、外山氏が最近書かれている「忘却の力」「忘却の整理学」へとつながる原型があるように感じます。それよりも、「日本語の論理」は、そのあとのp29へ行く場面が、私には印象的でした。
それはそれとして、
こんな箇所が気になります。
「そして、日本文学は圧倒的に抒情性、情緒性を主調とした文学になっている。ヨーロッパでは小説というものは、どちらかといえば演劇的性格をもつことが多く、とくに抒情的なものではないが、日本においては小説の中にヨーロッパの人が見たら詩ではないかと言うほどに抒情性が盛り込まれていないと、読者が満足しないのである。」(p78)
そして
「論理をつくす言葉、対立を解消させる演劇的発想があれば、いくらか役立つかもしれないが、われわれの言語では、そういうときに話し合う言葉がない。」(p79)
という言葉が目に止まったのは、最近、井上ひさしさんが亡くなったからかもしれません。
2010年4月13日の読売新聞文化欄に山崎正和氏が追悼・井上ひさしさんとして「『せりふの演劇』貫いた同志」という文を寄せていたのでした。
こうあります。
「思えばこの半世紀近く、井上さんと私は互いに交叉せず、しかし遠く離れない平行線のうえを歩いてきたようである。彼は明治以来、日本最大の喜劇作家だったのにたいして、私は客席を笑わせるのが苦手の芝居書きであった。彼は大衆演劇の経験を持ち、舞台裏まで知り尽くしたプロだったのにたいして、私は学生演劇の経験もない机上の作者だった。ついでに彼は芝居とともに小説を書いたが、私は評論をもう一つの仕事にしてきた。・・」
ちなみに、この追悼文の最後は
「思いだして楽しいのは、ここ数年、読売文学賞の選考委員会で同席したことであった。いわば初めて二人は文学について語り合い、互いの価値観を問われたわけだが、驚いたことに劇作はもちろん評論伝記についても、二人の意見はほとんどことごとく一致を見た。抽象的な世界観ではなく、個別の作品の評価の点で共感できたことに、私は二人の友情の新しい未来を期待し始めていた。御逝去の報に接して、日本の劇界が天才を失ったことを嘆くのが第一義だが、この友情の芽を摘まれたことを悲しむ私情も、大方のお許しを頂きたいと願っている。」
ああ、ここに外山氏のはじまりがあるのだろうなあ。
外山氏の文章のはじまり、はじまり。という感があります。
たとえば、
「思想の『体系』もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々と記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いて不朽のものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却のなかへ棄てさる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。」(p28)
などというのは、外山氏が最近書かれている「忘却の力」「忘却の整理学」へとつながる原型があるように感じます。それよりも、「日本語の論理」は、そのあとのp29へ行く場面が、私には印象的でした。
それはそれとして、
こんな箇所が気になります。
「そして、日本文学は圧倒的に抒情性、情緒性を主調とした文学になっている。ヨーロッパでは小説というものは、どちらかといえば演劇的性格をもつことが多く、とくに抒情的なものではないが、日本においては小説の中にヨーロッパの人が見たら詩ではないかと言うほどに抒情性が盛り込まれていないと、読者が満足しないのである。」(p78)
そして
「論理をつくす言葉、対立を解消させる演劇的発想があれば、いくらか役立つかもしれないが、われわれの言語では、そういうときに話し合う言葉がない。」(p79)
という言葉が目に止まったのは、最近、井上ひさしさんが亡くなったからかもしれません。
2010年4月13日の読売新聞文化欄に山崎正和氏が追悼・井上ひさしさんとして「『せりふの演劇』貫いた同志」という文を寄せていたのでした。
こうあります。
「思えばこの半世紀近く、井上さんと私は互いに交叉せず、しかし遠く離れない平行線のうえを歩いてきたようである。彼は明治以来、日本最大の喜劇作家だったのにたいして、私は客席を笑わせるのが苦手の芝居書きであった。彼は大衆演劇の経験を持ち、舞台裏まで知り尽くしたプロだったのにたいして、私は学生演劇の経験もない机上の作者だった。ついでに彼は芝居とともに小説を書いたが、私は評論をもう一つの仕事にしてきた。・・」
ちなみに、この追悼文の最後は
「思いだして楽しいのは、ここ数年、読売文学賞の選考委員会で同席したことであった。いわば初めて二人は文学について語り合い、互いの価値観を問われたわけだが、驚いたことに劇作はもちろん評論伝記についても、二人の意見はほとんどことごとく一致を見た。抽象的な世界観ではなく、個別の作品の評価の点で共感できたことに、私は二人の友情の新しい未来を期待し始めていた。御逝去の報に接して、日本の劇界が天才を失ったことを嘆くのが第一義だが、この友情の芽を摘まれたことを悲しむ私情も、大方のお許しを頂きたいと願っている。」