パラパラ読み、拾い読み、調べ読み。
とまあ、呼び方はいろいろあるのでしょうが、
ようするに、同時並行的に少しずつ摘み食い風に読んでいると、もともと自分の興味から読んでいるためでしょうが、別個の本が結びついてくるような気がする時があります。
ということで、ここでは、寺田寅彦。
末延芳晴著「寺田寅彦バイオリンを弾く物理学者」(平凡社)が楽しめました。
では、私の楽しみ方。
たとえばです。
外山滋比古氏の本を数冊読んでいると、
外山氏と寺田寅彦の関連が、自然と思い浮かんでくることになります。
それは、知る人ぞ知る。まあ、知らない人は知らない(笑)。
さてっと、寺田寅彦といえば、文学的には、まず夏目漱石のつながりが思い浮かびます。
寺田寅彦に「夏目漱石先生の追憶」という文があります。これ岩波少年文庫の寺田寅彦のエッセイにも載っております。
その文はこうはじまっておりました。
「熊本第五高等学校在学中、第二学年の学年試験の終わったころのことである。同県学生のうちで試験を『しくじったらしい』二、三人のために、それぞれの受け持ちの先生方の私宅を歴訪して、いわゆる『点をもらう』ための運動委員が選ばれたときに、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。その時に夏目漱石の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、もしや落第すると、それきりその支給を断たれる恐れがあったのである。」
こうし先生を訪ねた寺田寅彦は
「もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、自分は『俳句とは一体どんなものですか』という、世にも愚劣なる質問を持ち出した。それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ醗酵しかけていたからである。」
さて、ここで、漱石先生はどう答えたか?
ここは大切なところですから、何度も繰返して、よい箇所であります。
「その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。『俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。』『扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。』『花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという。』『【秋風や白木の弓につる張らん】といったような句は佳(よ)い句である。』『いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。』」
こう漱石先生から聞かされた寺田寅彦はどうしたのか。
ここが凡才と非凡との分かれ道であります。
「こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、夏休みに国へ帰ってから手当り次第の材料をつかまえて二、三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本へ着くなり、何よりも先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行ったときに返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二、三の句の頭に○や○○がついていた。それから病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二、三度も先生の家へ通ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井に移っていた。立田山麓の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。」
そしてどうなったか。
「自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規のところへ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が『日本』新聞第一ページ最下段左隅の俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをして、その新聞を切り抜いては紙袋の中に貯えるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。当時自分の外に先生から俳句の教えを受けていた人々の中には厨川千江、平川草江、蒲生紫川らの諸氏があった。その連中で運座というものを始め、はじめは先生の家でやっていたのが、後には他の家を借りてやったこともあった。時には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある。そういうとき、いかにも先生らしい凡想をとびぬけた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった。」
え~と。何でしたっけ。
そうそう。鶴見俊輔著「言い残しておくこと」(作品社)に
『俳句というのは、明治以降の欧米の学問に追随したものにはない、江戸以前からの日本の文化とつながる深い眼差しがあるんですよ。』(p222)
さて、末延芳晴著「寺田寅彦バイオリンを弾く物理学者」は、その俳句と寅彦について知るのに思いもかけない視点を提供してくれておりました。
それはそれとして、漱石と寅彦と俳句との関係の最後も描かれておりました。
「大正五年12月9日、恩師の漱石が死去したあと、寅彦は『漱石全集』の編集委員に選ばれ、漱石の旧稿、特に俳句関係の原稿を集め、読み進めていく。その過程で、漱石文学の根底において俳句が重要な意味を占めていることを改めて認識させられたのだろう、小宮豊隆や松根東洋城らと共に『俳句を通しての漱石先生の研究の会』を組織し、定期的に例会を持ち続け、最初の成果として大正14年、小宮や松根と共著で『漱石俳句研究』を刊行している。さらに、漱石俳句の研究に一段落ついたのを見届けるようにして、翌年から松根と連句作りに力を入れるようになる。そして五年後の昭和6年には、連句研究の第一人者、幸田露伴の面識を得たことで、連句への傾斜と理解を一層増している。寅彦は、俳諧文学を通して培ってきた漱石との関係の集大成として『連句雑俎』を書き上げることで、漱石の学恩に報いようとしたのであろう。」(p294)
外山氏の豆腐文では、なかなかこうはっきりと経過を知ることができないのですが、末延芳晴氏の著作で、その道筋が見えてきたような気がいたします。
とまあ、呼び方はいろいろあるのでしょうが、
ようするに、同時並行的に少しずつ摘み食い風に読んでいると、もともと自分の興味から読んでいるためでしょうが、別個の本が結びついてくるような気がする時があります。
ということで、ここでは、寺田寅彦。
末延芳晴著「寺田寅彦バイオリンを弾く物理学者」(平凡社)が楽しめました。
では、私の楽しみ方。
たとえばです。
外山滋比古氏の本を数冊読んでいると、
外山氏と寺田寅彦の関連が、自然と思い浮かんでくることになります。
それは、知る人ぞ知る。まあ、知らない人は知らない(笑)。
さてっと、寺田寅彦といえば、文学的には、まず夏目漱石のつながりが思い浮かびます。
寺田寅彦に「夏目漱石先生の追憶」という文があります。これ岩波少年文庫の寺田寅彦のエッセイにも載っております。
その文はこうはじまっておりました。
「熊本第五高等学校在学中、第二学年の学年試験の終わったころのことである。同県学生のうちで試験を『しくじったらしい』二、三人のために、それぞれの受け持ちの先生方の私宅を歴訪して、いわゆる『点をもらう』ための運動委員が選ばれたときに、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。その時に夏目漱石の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、もしや落第すると、それきりその支給を断たれる恐れがあったのである。」
こうし先生を訪ねた寺田寅彦は
「もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、自分は『俳句とは一体どんなものですか』という、世にも愚劣なる質問を持ち出した。それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ醗酵しかけていたからである。」
さて、ここで、漱石先生はどう答えたか?
ここは大切なところですから、何度も繰返して、よい箇所であります。
「その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。『俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。』『扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。』『花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという。』『【秋風や白木の弓につる張らん】といったような句は佳(よ)い句である。』『いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。』」
こう漱石先生から聞かされた寺田寅彦はどうしたのか。
ここが凡才と非凡との分かれ道であります。
「こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、夏休みに国へ帰ってから手当り次第の材料をつかまえて二、三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本へ着くなり、何よりも先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行ったときに返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二、三の句の頭に○や○○がついていた。それから病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二、三度も先生の家へ通ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井に移っていた。立田山麓の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。」
そしてどうなったか。
「自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規のところへ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が『日本』新聞第一ページ最下段左隅の俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをして、その新聞を切り抜いては紙袋の中に貯えるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。当時自分の外に先生から俳句の教えを受けていた人々の中には厨川千江、平川草江、蒲生紫川らの諸氏があった。その連中で運座というものを始め、はじめは先生の家でやっていたのが、後には他の家を借りてやったこともあった。時には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある。そういうとき、いかにも先生らしい凡想をとびぬけた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった。」
え~と。何でしたっけ。
そうそう。鶴見俊輔著「言い残しておくこと」(作品社)に
『俳句というのは、明治以降の欧米の学問に追随したものにはない、江戸以前からの日本の文化とつながる深い眼差しがあるんですよ。』(p222)
さて、末延芳晴著「寺田寅彦バイオリンを弾く物理学者」は、その俳句と寅彦について知るのに思いもかけない視点を提供してくれておりました。
それはそれとして、漱石と寅彦と俳句との関係の最後も描かれておりました。
「大正五年12月9日、恩師の漱石が死去したあと、寅彦は『漱石全集』の編集委員に選ばれ、漱石の旧稿、特に俳句関係の原稿を集め、読み進めていく。その過程で、漱石文学の根底において俳句が重要な意味を占めていることを改めて認識させられたのだろう、小宮豊隆や松根東洋城らと共に『俳句を通しての漱石先生の研究の会』を組織し、定期的に例会を持ち続け、最初の成果として大正14年、小宮や松根と共著で『漱石俳句研究』を刊行している。さらに、漱石俳句の研究に一段落ついたのを見届けるようにして、翌年から松根と連句作りに力を入れるようになる。そして五年後の昭和6年には、連句研究の第一人者、幸田露伴の面識を得たことで、連句への傾斜と理解を一層増している。寅彦は、俳諧文学を通して培ってきた漱石との関係の集大成として『連句雑俎』を書き上げることで、漱石の学恩に報いようとしたのであろう。」(p294)
外山氏の豆腐文では、なかなかこうはっきりと経過を知ることができないのですが、末延芳晴氏の著作で、その道筋が見えてきたような気がいたします。