和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

思い出袋。

2010-04-20 | 他生の縁
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)を読む。
読み応えがありました。なぜならば、80歳から月一回の連載を7年つづけたのを、こうして一冊にまとめてあるからなのでしょう。さて80歳を過ぎるとどうなるか。
「出典をあきらかにして、引用を正確にするところから、私はもはや遠いところにいる。」(p60)
そういう鶴見氏が、自分のことを回顧しながら、それが自慢話にならずにすんでいるのは、たとえばグレタ・ガルボを語ったこんな箇所に、その気構えが出ているように思えます。

「この人は、晩年、ニューヨークにかくれて住んだ。老夫婦とすれちがう時には、うらやましく感じることがあると友だちに言い、『名声と欲望が自分をほろぼした』とつけ加えた。自分の生涯をふりかえって、こんなふうに言える人はすばらしいと思った。」(p21)

こういう「すばらしさ」をどうやら、この新書でめざしておられるように読めました。
さまざまな出会いを、そのつどの一期一会として、反芻しているような文章で、さまざまなお名前が登場するのでした。その一般的にいえば有名人を語って、イヤミにならないのは、どうしてなのか。たとえば柳宗悦の本を紹介しているこんな箇所。

「蒐集は、美術館に行っても、そこにあるものとくつろいでつきあう感じにならないと、心に残らないそうである。」(p28)

「私は今でも、自分の小学校の級友四十二名をあだ名でおぼえている。」(p66)

それでは、すこし長い引用。

「丸山真男は、自分の雑談が活字になることを嫌った。丸山さんは亡くなり、その雑談を私はここに書くことになるが、許してくれるだろうか。
1967年のある日、私は何か用事があって、都内の喫茶店で丸山さんと会った。ちょうど私は校正刷りをもっていて、丸山さんに、『評論の本を出すので、その題を、『日本的思想の可能性』ということにしました』と言うと、『それはよくない。君が僕に教えてくれた最大のことは、日常的ということだ。』私はおどろいた。・・・このとき私は感じた。すぐれた思想史家は、著者その人よりも深く、その著作をとらえる場合がある。・・・私はすぐ出版社に電話し・・本の題名を変えた。・・友人をどう定義するか。私は、その人に敬意をもっていることが第一の条件と思うが、それに加えて、その人と雑談することがもうひとつの条件としてあると思う。」(p136~137)

う~ん。あなたが読めば、あなたの別の視点で、芋づる式に言葉がつながって出てくる。そんなような、豊かな新書一冊。博識を日常の次元に呼び戻す呪文を、手放さずにいようとする80歳代の回顧の記録。
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