和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

エディターシップ。

2010-04-25 | 短文紹介
外山滋比古著「エディターシップ」(みすず書房)を、今日は読み始めました。
といっても、いまだ45ページまで。
古本です。何でも「新エディターシップ」というのが出ているようですが、
それはそれとして、まずはこの本を楽しみます。

たとえば、こんな箇所がある。

「すぐれた編集者は大学の教師以上に学を好み、考え方が柔軟で、やさしく、親切である。つまり、優秀なのである。・・・少なくとも、編集の仕事をしている間は、われわれの心の中の善良さの部分だけを発動させるような何かがあるのではないだろうか。」(p32)

さて、このあとでした。

「狩人のようにものを追い求めている編集者に会っていると、自分のかなにも相手の求める獲物が眠っているのかもしれない、とついうぬぼれの錯覚がおこって胸を躍らせる。それで相手が幸運の女神のように見えるのかもしれない。別に仕事のことでなくても、編集者と雑談をしていると、日頃は漠然としか考えていないことが急に明確な形をとって口をついて出るということも珍しくない。人間の潜在的能力を引き出して具現するのが教育の本義であるとするならば、編集はまさにすぐれた教育だと言ってよい。・・・」

 ということで、
なぜか、井上靖の詩「猟銃」を思い浮かべたりするのでした。

    猟銃

なぜかその中年男は村人の顰蹙を買い、彼に集る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯(バンド)をしめ、コールテンの上衣の上に猟銃を重くくいこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天城への間道の叢(くさむら)をゆっくりと分け登ってゆくのを見たことがあった。
それから二十余年、その人はとうに故人になったが、その時のその人の背後姿は今でも私の瞼から消えない。生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、あのように冷たく武装しなければならなかったものは何であったのか。私はいまでも都会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人(ひと)のように歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たく――。そして、人生の白い河床をのぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方に、同時にしみ入るような重量感を捺印(スタンプ)するものは、やはりあの磨き光れる一箇の猟銃をおいてはないかと思うのだ。


井上靖の「猟銃」を思うと、私は田村隆一の詩を思い浮かべます。
ということで、どんどんと連想は、それてゆきますが、思い浮かぶままに、


     細い線

  きみはいつもひとりだ
  涙をみせたことのないきみの瞳には
  にがい光りのようなものがあって
  ぼくはすきだ

    きみの盲目のイメジには
    この世は荒涼とした猟場であり
    きみはひとつの心をたえず追いつめる
    冬のハンターだ

  きみは言葉を信じない
  あらゆる心を殺戮してきたきみの足跡には
  恐怖への深いあこがれがあって
  ぼくはたまらなくなる

    きみが歩く細い線には
    雪の上にも血の匂いがついていて
    どんなに遠くへはなれてしまっても
    ぼくにはわかる

  きみは撃鉄を引く!
  ぼくは言葉のなかで死ぬ



うん。ただ単に、「狩人」から「猟人」へ、そして「冬のハンター」へと私の連想でした。
ところで、「エディターシップ」の引用箇所の文は、菊池寛を語っておりました。そこも引用しておきましょう。

「菊池寛はきわめて独創的なエディターであったが、わが国の知識階級が外国文化に盲目的に追随している時代に、そういう独創が正当に理解されることは困難である。・・・・われわれは現在でもまだ文化の創造者としての菊池寛の姿をしっかりとは見ていない。外国模倣文化の中では、やむを得ないことなのであろうか。・・・・」
コメント
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