雑誌「WILL」2010年7月号。
その連載エッセイ・曽野綾子「小説家の身勝手」のはじまりに、
「すべて趣味と名のつくものには、溝に捨てるに近い金がかかるのが原則だ・・・」という箇所がありました。その少し先のページに「石井英夫の今月この一冊」があり、竹内政明著「名文どろぼう」を取り上げていたのでした。せっかくですから、石井英夫氏の文を引用。
「へえ、こんな話どこから引っぱってきたのか。フム、こんなデータも読んでいたのか。ありきたりの百科辞典やパソコンに依拠するような知見は一つもない。・・・そこで著者の周辺を取材してみたのだが、この人(竹内政明)は少しの時間があれば本を開いている。仕事の机上や身の回りは本だらけだという。本を読んでこれはと思う個所があれば片っ端からコピーし、項目ごとにファイルしているらしい。コラム書きに王道なし。何のことはない、それこそコツコツと地道な不断の読書の積み重ねがそのノウハウなのだった。」
石井さんの最後の言葉も引用したくなります。
「著者は、この本を『書いて楽しかった。日本語に勝る娯楽はないと思っている』と言い切っている。言語が娯楽だとはすごい。乞食は三日やったらやめられないというが、言葉どろぼうをやったら、それに勝る快感はないらしい。その醍醐味がわかればあなたもコラム書きになれる。」
ということで、竹内政明著「名文どろぼう」より、ひとつ引用したくなります。
「新聞社とは妙な職場で、昇進してペンを取り上げられる者はむしろ不幸であり、出世コースから外れて記事を書きつづける者を幸せとみなす空気が伝統として残っている。
ナントカ部長やカントカ部長に栄進した後輩たちからは日ごろ、『竹内さんがうらやましい。ああ、うらやましい』と妬まれてきた。そうだろう、そうだろう、うらやましいだろう・・・内心、鼻高々でいたのだが、このあいだ中国文学者、高島俊男さんのエッセイを読んでいて少しあわてた。
『うらやましい』というのは、相手を傷つけることなく同情の意をあらわそうとする際のあいさつことばなのであった。相手を傷つけまいとするから、自分を相手より低位におこうとする。身をかがめて『あなたは私より高い、うらやましい』とこうなるわけだ。
―――高島俊男「本が好き、悪口言うのはもっと好き」(文春文庫)
十年以上も名刺の肩書が変らない境遇を、どうやら同情されていたらしい。
泣菫先生は、こうも書いている。
『哲学』はこの世で出世をした輩(やから)は皆馬鹿だという事を教えてくれる学問である。 ―――薄田泣菫『茶話』(岩波文庫)
ちなみに筆者は学校で哲学を専攻した。これを、先見の明という。 」(p57~58)
その連載エッセイ・曽野綾子「小説家の身勝手」のはじまりに、
「すべて趣味と名のつくものには、溝に捨てるに近い金がかかるのが原則だ・・・」という箇所がありました。その少し先のページに「石井英夫の今月この一冊」があり、竹内政明著「名文どろぼう」を取り上げていたのでした。せっかくですから、石井英夫氏の文を引用。
「へえ、こんな話どこから引っぱってきたのか。フム、こんなデータも読んでいたのか。ありきたりの百科辞典やパソコンに依拠するような知見は一つもない。・・・そこで著者の周辺を取材してみたのだが、この人(竹内政明)は少しの時間があれば本を開いている。仕事の机上や身の回りは本だらけだという。本を読んでこれはと思う個所があれば片っ端からコピーし、項目ごとにファイルしているらしい。コラム書きに王道なし。何のことはない、それこそコツコツと地道な不断の読書の積み重ねがそのノウハウなのだった。」
石井さんの最後の言葉も引用したくなります。
「著者は、この本を『書いて楽しかった。日本語に勝る娯楽はないと思っている』と言い切っている。言語が娯楽だとはすごい。乞食は三日やったらやめられないというが、言葉どろぼうをやったら、それに勝る快感はないらしい。その醍醐味がわかればあなたもコラム書きになれる。」
ということで、竹内政明著「名文どろぼう」より、ひとつ引用したくなります。
「新聞社とは妙な職場で、昇進してペンを取り上げられる者はむしろ不幸であり、出世コースから外れて記事を書きつづける者を幸せとみなす空気が伝統として残っている。
ナントカ部長やカントカ部長に栄進した後輩たちからは日ごろ、『竹内さんがうらやましい。ああ、うらやましい』と妬まれてきた。そうだろう、そうだろう、うらやましいだろう・・・内心、鼻高々でいたのだが、このあいだ中国文学者、高島俊男さんのエッセイを読んでいて少しあわてた。
『うらやましい』というのは、相手を傷つけることなく同情の意をあらわそうとする際のあいさつことばなのであった。相手を傷つけまいとするから、自分を相手より低位におこうとする。身をかがめて『あなたは私より高い、うらやましい』とこうなるわけだ。
―――高島俊男「本が好き、悪口言うのはもっと好き」(文春文庫)
十年以上も名刺の肩書が変らない境遇を、どうやら同情されていたらしい。
泣菫先生は、こうも書いている。
『哲学』はこの世で出世をした輩(やから)は皆馬鹿だという事を教えてくれる学問である。 ―――薄田泣菫『茶話』(岩波文庫)
ちなみに筆者は学校で哲学を専攻した。これを、先見の明という。 」(p57~58)