和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

至れり尽くせり。

2010-06-20 | 古典
竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)のことを、
雑誌の書評で石井英夫氏がとりあげていた言葉に、

 「著者は、この本を『書いて楽しかった。日本語に勝る娯楽はないと思っている』と言い切っている。言語が娯楽だとはすごい。乞食は三日やったらやめられないというが、言葉どろぼうをやったら、それに勝る快感はないらしい。その醍醐味がわかれば・・・」
    (「WILL」2010年7月号・「石井英夫の今月の一冊」)

しばらくたってからでした。論語にあるところの

「子日(しのたまわ)く、之(これ)を知る者は、之を好む者に如(し)かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」を思い浮かべたのでした。

それでは、と渡部昇一著「論語活学」(到知出版社)を取り寄せたわけです。
そこに、この孔子の言葉をどう解説しているかを、ちらりと覗いてみました。
渡部氏はそこを解説した最後にこう語っているのでした。

「文科系で学問を楽しむか楽しまないかの一つの目安は、自腹を切って本をかっているかどうかである。本というのは決して安いものではないから、それを自腹で買うような人であれば、定年退職したからといって投げ出すことはないはずである。学ぼうとすればどこまでも学ぶことができる。しかし学ぶことを『楽しむ』境地にまでいっていないと、停年で学ぶことまで停止してしまう次第になる。本当の学問はゴールはないはずなのにである。そしてまた、これは仕事についても適用できる教えであるだろう。」(p42)

さてっと、渡部氏のこの本のプロローグはというと、
「私が文学として最初に『論語』を意識したのは、『キング』という講談社の雑誌の折り込み付録であったが、正式に『論語』を学んだのは旧制中学校二年の漢文の授業であった。」

「日本の資本主義の父といわれる渋沢栄一は若いときから『論語』を読み続け、八十を過ぎた晩年に至るまで一度も裏切られた気持ちになったことがないといっている。・・自分には『論語』があれば十分で、他には宗教も何もいらないとまでいっているのである。」(p18)

そして第一章「学問は人生を照らす」の題ページの裏に、こう書いておりました。

「孔子は『論語』の中で学ぶことの大切さ、その楽しみを繰り返し語っている。さらに、どのように学べば実を結ぶのかということを明快に教えている。学ぶ者はただ、これらの章句を実践すればいいのである。まさに至れり尽くせり。世の中には数多くの学習法を紹介した本があるが、『学びて而(しこう)して時の之を習う。亦説(またよろこ)ばしからずや』(学而第一)から始まる『論語』は、その最良のテキストといっていいだろう。」

う~ん。論語は、このようにして読めばよいのだろうなあ、と
いまだ通して読んだことのない私は、思うわけで、
とりあえず、渡部昇一著「論語活学」を楽しんでみましょう(笑)。
コメント
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