以前は、拾い読みだった外山滋比古著「知的創造のヒント」(講談社現代新書)を、まあ、とりあえず最初から読んでみました。
読書論はかずかずあれども、「あえて読みさす」と語ったのは外山氏がはじめてじゃないかと、その体験に根ざした独創を思ってみるのでした。
では、とりあえず、そこを引用。
「ひとまず休んだ方がよさそうだと思って、読みたい心を抑えて本を閉じた。次の日、吸い込まれるようにまた読み出したが、さらにいっそう怖しくなる。どういうわけかわからないが、読み続けるととんでもないことになりそうな気がする。また、すこし読んだだけでやめにする。こういうことを両三日続けて、とうとう読了することをあきらめてしまった。ごく初めのところをちょっぴりのぞいただけで終った。それでいて、たいへんよくわかったように感じていたのだから不思議である。」
この本というのが、I・A・リチャーズの『実践的批評』のこと。
つぎにこうあります。
「ウィリアム・エンプソンの本は『曖昧の七型』というのである。これはもっと早いところで金しばりに遭った。はじめの数ページを読んだだけで、この先をのぞくととんでもないことが起らずにはおかないような不安に襲われてしまった。つまり、おもしろ過ぎそうな予感があって、こわくなるのである。・・」(p109)
「ひどくおもしろそうだとなると、かえって、先を読み続けられない――というのは癖なのかもしれないと思う。リチャーズ、エンプソン以来、何度かそういうことがあった。いまでもこの癖は抜けないらしく、ときどき自他ともに迷惑する。書評を引き受けて読み始めた本が、予想外におもしろい。十ページくらいのところで、これはあぶないと思い出す。二十ページあたりで、もう読んではいられないような気がする。本を閉じてぼんやりしていると、あれこれ余韻が浮んでくる。それに身をまかせているのはこのうえなくたのしい。いつの間にか自分の考えを触発されることもある。これではしかし、書評の間には合わない。・・・このごろは書評ははじめから降参することにした。」(p110~111)
私のすくない読書の範囲でも、読書に関してこう書いている方にはじめてあった気がいたします。何気なくも読み過ごしやすい、文章の流れとしては、簡単な、あっさりとした書きぶりなので、読み返さないと、ついつい忘れてしまいます(笑)。
ところで、この新書に
「・・清水幾太郎氏の新著『日本語の技術』で読んで、たいへんおもしろいと思い・・」(p156)という箇所がありました。
ちなみに、清水幾太郎著「日本語の技術」というのは、
清水幾太郎著作集19の著作目録によりますと、
「『日本語の技術 ――私の文章作法――』ごま書房 昭和52年1月10日
『ごまブックス』新書判・223頁。
『潮新書』版の『私の文章作法』に加筆したもの」とあります。
これが現在手に入る中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」と
どうやら同じ内容なのかと思います。
でも中公文庫のには、最後に『私の文章作法』1971年10月潮出版社刊とわざわざ指摘しております。それじゃ、ごま書房の古本を注文したくなるじゃありませんか。
まあ、そのまえに、
もう一度、清水幾太郎著作集の月報に書かれた外山滋比古氏の文を読み直してみます。
さて、せっかくですから、
清水幾太郎著作集15にある「文章三則」という3頁ほどの文を、すこし引用してみます。
「・・第一則 自分の気持に忠実であること。文章は相手に読ませるもの、誰かに読んで貰うものであるところから、よほど自分の気持を大切にしていないと、相手のことを顧慮し過ぎて、廻りくどい文章になってしまうものである。・・・
・ ・・・・
第三則 出来るだけ静かに書くこと。・・・文章とは決意であるということになると、とかく、強い表現を使いたくなるものであるが、これは禁物である。むしろ、控え目な表現を選ぶ必要がある。『非常に大きな』と書きたい時でも、『大きな』で我慢した方がよい。そうでないと、『絶大な御支援を』という調子の選挙演説と同じように、相手の心の内部へ入らずに、その外部で爆発してしまう。言葉は相手の心へ静かに入り込んで、内部で爆発すべきものである。・・・・弱い控え目な言葉を大切にしなければいけない。
・ ・・・・・・・・・
以上の三則は、私が自分の経験から得たルールであるから、誰にでも同じように通用するとは思われない。しかし、真面目に文章のことを考えている読者にとっては何か参考になるであろう。兎に角、本当に易しい文章というのは、正確な文章ということである。・・・」(p100~102)
読書論はかずかずあれども、「あえて読みさす」と語ったのは外山氏がはじめてじゃないかと、その体験に根ざした独創を思ってみるのでした。
では、とりあえず、そこを引用。
「ひとまず休んだ方がよさそうだと思って、読みたい心を抑えて本を閉じた。次の日、吸い込まれるようにまた読み出したが、さらにいっそう怖しくなる。どういうわけかわからないが、読み続けるととんでもないことになりそうな気がする。また、すこし読んだだけでやめにする。こういうことを両三日続けて、とうとう読了することをあきらめてしまった。ごく初めのところをちょっぴりのぞいただけで終った。それでいて、たいへんよくわかったように感じていたのだから不思議である。」
この本というのが、I・A・リチャーズの『実践的批評』のこと。
つぎにこうあります。
「ウィリアム・エンプソンの本は『曖昧の七型』というのである。これはもっと早いところで金しばりに遭った。はじめの数ページを読んだだけで、この先をのぞくととんでもないことが起らずにはおかないような不安に襲われてしまった。つまり、おもしろ過ぎそうな予感があって、こわくなるのである。・・」(p109)
「ひどくおもしろそうだとなると、かえって、先を読み続けられない――というのは癖なのかもしれないと思う。リチャーズ、エンプソン以来、何度かそういうことがあった。いまでもこの癖は抜けないらしく、ときどき自他ともに迷惑する。書評を引き受けて読み始めた本が、予想外におもしろい。十ページくらいのところで、これはあぶないと思い出す。二十ページあたりで、もう読んではいられないような気がする。本を閉じてぼんやりしていると、あれこれ余韻が浮んでくる。それに身をまかせているのはこのうえなくたのしい。いつの間にか自分の考えを触発されることもある。これではしかし、書評の間には合わない。・・・このごろは書評ははじめから降参することにした。」(p110~111)
私のすくない読書の範囲でも、読書に関してこう書いている方にはじめてあった気がいたします。何気なくも読み過ごしやすい、文章の流れとしては、簡単な、あっさりとした書きぶりなので、読み返さないと、ついつい忘れてしまいます(笑)。
ところで、この新書に
「・・清水幾太郎氏の新著『日本語の技術』で読んで、たいへんおもしろいと思い・・」(p156)という箇所がありました。
ちなみに、清水幾太郎著「日本語の技術」というのは、
清水幾太郎著作集19の著作目録によりますと、
「『日本語の技術 ――私の文章作法――』ごま書房 昭和52年1月10日
『ごまブックス』新書判・223頁。
『潮新書』版の『私の文章作法』に加筆したもの」とあります。
これが現在手に入る中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」と
どうやら同じ内容なのかと思います。
でも中公文庫のには、最後に『私の文章作法』1971年10月潮出版社刊とわざわざ指摘しております。それじゃ、ごま書房の古本を注文したくなるじゃありませんか。
まあ、そのまえに、
もう一度、清水幾太郎著作集の月報に書かれた外山滋比古氏の文を読み直してみます。
さて、せっかくですから、
清水幾太郎著作集15にある「文章三則」という3頁ほどの文を、すこし引用してみます。
「・・第一則 自分の気持に忠実であること。文章は相手に読ませるもの、誰かに読んで貰うものであるところから、よほど自分の気持を大切にしていないと、相手のことを顧慮し過ぎて、廻りくどい文章になってしまうものである。・・・
・ ・・・・
第三則 出来るだけ静かに書くこと。・・・文章とは決意であるということになると、とかく、強い表現を使いたくなるものであるが、これは禁物である。むしろ、控え目な表現を選ぶ必要がある。『非常に大きな』と書きたい時でも、『大きな』で我慢した方がよい。そうでないと、『絶大な御支援を』という調子の選挙演説と同じように、相手の心の内部へ入らずに、その外部で爆発してしまう。言葉は相手の心へ静かに入り込んで、内部で爆発すべきものである。・・・・弱い控え目な言葉を大切にしなければいけない。
・ ・・・・・・・・・
以上の三則は、私が自分の経験から得たルールであるから、誰にでも同じように通用するとは思われない。しかし、真面目に文章のことを考えている読者にとっては何か参考になるであろう。兎に角、本当に易しい文章というのは、正確な文章ということである。・・・」(p100~102)