和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大正大震災。

2010-06-08 | 地震
1964年「暮しの手帖」77号に掲載されていた丸山丈作氏の「東京府立第六高等女学校」を読むと、関東大震災と第六高等女学校のつながりが校長先生と介して目の前に展開してゆくような読後感がありました。
そういえば、渡部昇一著「『仕事の達人』の哲学 野間清治に学ぶ運命好転の法則」(到知出版社)にも、関東大震災に関する箇所がありました。

「大正十二年九月一日に起こった関東大震災は、順調な発展を遂げる講談社を文字通り揺り動かした。・・幸いなことに、講談社の被害はごく少なくて済んだ。音羽も団子坂も講談社はほとんど無傷だったし、家族も社員も少年たちも無事だった。・・・野間は考えた。ここで自分は何をするべきなのか。ほんやりしている場合ではない。この際、何か天下のために尽くすことがなければならない。そのためには、まず何よりも出版社として自らの事業を立て直すことが急務である、と。大地震のとき、各雑誌の十月号は出来上がる間際だった。しかし、地震の影響で印刷所や製本所や取次店はすぐには動けない。そこですぐに雑誌の1か月休刊を決めた。その間に何をするか。野間と社員たちは余震で揺れ動く地面の上で何回も会議を開いた。その結果、大震災の被害実態を単行本にまとめて、これを残しておくのが出版社としての義務ではないかという意見がまとまった。町へ出れば情報は山ほどあったが、その真偽が問題だった。変な噂もあるし、インチキ写真も出回っている。そういう中から正しい情報を得るのは非常に難しかったが、できる限り正確に、写真を集め、話をよく聞き、尾ひれのついた噂でないかどうか丁寧にチェックして、大震災の本をまとめた。本のタイトルは『大正大震災大火災』とした。・・・そうしたアイデアと努力のかいあって、『大正大震災大火災』は日本全国の書店に並び、一部残らず売り尽くした。」(p190~192)

ということで、『大正大震災大火災』(大日本雄弁会講談社)を、ちょっと手にとって、開いてみたくなります。まあ、それはそれとして、

清水幾太郎著作集15 から関東大震災について書いている箇所を引用しておきます。


「・・・私は十六歳の少年であった。その日、私たちの無一物の生活が始まった。しかし、私には、自分が勝つに決まっている試合が始まったように感じられた。訳の判らぬ元気があった。その半面、私にとって、少年や青年と呼ばれる人生の猶予期間は、その日に終って、それから今日まで、大人の生活が続いているような気がする。私の決定的な体験という意味では、第二次世界大戦などは、関東大震災の足元にも及ばない。大切なのは、事件の客観的な大きさより、当の人間の年齢なのであろう。・・・・・第二の関東大震災では何百万人が死ぬのであろうか。何十兆円が灰になるのであろうか。そして、その日、何人が生き残って、私のように一度に大人になったと感じるのであろうか。
関東大震災の経験は、私という人間の内部に二度と消えないように刻み込まれてしまった。それが刻み込まれているために、目前に迫っている第二の関東大震災の恐怖が片時も私の心を去らないのだ。しかし、私の経験を他人の内部に移し入れることは出来ない。先日も、或る若い敏感なジャーナリストに向って第二の関東大震災について話した時、熱心に聞き入っていた彼が最後に言ったのは、『SFですね』という感想であった。・・・」(p121)

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