和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

祭る人。

2010-06-21 | 古典
今年の神社神輿(みこし)は、7月17日(土曜日)に担ぎます。
よい天気で、大勢あつまりますように。
さてっと、当日は、午前中に神輿の組み立て。
そして、神主により、お祓いし、神輿に御玉を入れ、午後より担ぎます。
ということで、当日の午前中は神社の庭で神輿の組み立てをしている間、
神社では神主による儀式(?)が行なわれております。
今年は神輿の副役員なので、その神社の中へはいることになっております。

ところで、渡部昇一著「論語活学」(到知出版社)を読んだら、

「祭(まつ)れば在(いま)すが如く、
 神を祭れば神在すが如し。
子曰く、吾祭に与らざれば、祭らざるが如し。」(p263)

これについて渡部氏は、説明しております。

「祭りの礼について述べた章である。この祭りというのは、先祖や神々を祭ることを指していっている。先祖の祭りをするときは、そこにご先祖様がいらしゃるような気持ちで行い、神様を祭るときには、そこに神様がいるような形式で祭る。そして孔子は『そういう祭りに自分で実際に参加しないと、祭ったような気がしない』という。・・・」

そして渡部氏は語っております。

「子供の頃に神道の本を読んだとき、『この世の中は明るい部屋みたいなもので、神様は暗い外にいる。だから、こちら側からは神様の姿は全く見えないけれど、神様からこちら側はすべて見えている。これが神道である』という趣旨のことが書かれていた。そう考えると、神を祭るにしても、祭る人の生きざま自体が祈りみたいなものになる。だから、祭るときには、神様がそこにいるような気持ちにならなければ本当のお祭りとはいえない。これが先祖や神々を祭るときの基本的な態度ではないかと思うのである。」(p264~265)


う~ん。そうか、と読みながら思ったわけです。
そういえば、地区の神社は子安神社というのですが、
その近郷では、昔から、お伊勢参りをしていたのだそうです。
もう何年か前に、若い人にも、お伊勢参りをしてほしいと、
長老方が発案して、40~50代で人数をつのって、バスでお伊勢参りにいったことがありました。はじめて入ったお伊勢さまは、参拝者が大勢でも、静まりかえっている感じをうけ、落ち着いた雰囲気をたたえておりました。

ということで、思い浮かべるのは、西行の歌

 何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさの涙こぼれて


日本名句辞典の解説を読むと

「伊勢の大神宮の御祭の日に詠んだ歌とある。西行は特に晩年伊勢に心ひかれて、そこに一時止住(しじゅう)したこともある位である。そうした折のことでもあろうか。・・・・」


ということで、神輿と論語と西行と。
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古くさいぞ私は。

2010-06-21 | 短文紹介
昨日の夜。新書の新刊2冊届く。
水川隆夫著「夏目漱石と戦争」(平凡社新書)
氏の「漱石と落語」に感銘しておりましたので、
読むのが楽しみなのですが、これは丁寧に読みたい一冊
(なんていっていると、読まずに積読となるかも)。

もう一冊の新書は、柴田光滋著「編集者の仕事」(新潮新書)
こちらは、軽そうな一冊。
そうそう。柴田氏の新書のはじめに
こんなのがありました。

「評論家の坪内祐三『古くさいぞ私は』から。
本とコンピュータの最大の違いは『積ん読できるかいなかにある』とした上で、次のように言葉を続けています。

『実に目を通していなくても、その本を持っているという事実だけで豊かな気持にさせてくれる。そういうモノとしての近代的書物を誕生させてくれたことだけで、私はグーテンベルクに感謝している。』

仮に読んでいなくても、本にはモノとしての存在感がある。そのことを指摘して間然するところがありません。」(p29)


そういえば、朝日新聞2010年6月1日文化欄に坪内祐三氏が書いておりました。ついでに、その後半を引用しておきましょう。


「『一九七二』という著作で私は、一つのジャンルに絞らずに、1972年の丸ごとを描こうと考えた。その際に一番役にあったのは、当時の新聞縮刷版、それから月刊誌や週刊誌のバックナンバーだった。・・・1972年は例えば連合赤軍事件や元日本陸軍兵士横井庄一のグアム島での発見、そして札幌オリンピックが開かれた年として記憶される・・日活ロマンポルノや『四畳半襖の下張』が摘発を受けたのもこの年だが、その調べの途中で出会った『セックス・ドキュメント はだかの日本列島』という週刊誌の連載記事がどれほど役に立ったことだろう。
ネット革命が進行して行けば、一つのテーマ史、例えば1968年の政治史などの精度は増すだろう。しかしそれは東西南北の雑情報と引き換えの精度だ。
ipadで得られる情報や資料(それを私は現前情報と呼ぼう)は新しく、しかも膨大なものだ。だがそれは、例えばひと月単位でどのようにまとまって行くのだろう。さらに一年二年、十年と進んで行ったなら。
もしこの世から新聞や雑誌が消えてしまたならば、実は私たちは歴史を失うことになる。十年後二十年後にそのことに気づいても遅いだろう。」

ついつい、長い引用となりました。
そうそう、坪内さんの、その文のはじまりは

「ipadが日本でも発売された。・・・新聞や雑誌にとっていよいよ脅威だと言われている。・・・」
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