和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

カバー折返し。

2010-06-13 | 他生の縁
古本屋に注文してあった清水幾太郎著「日本語の技術  私の文章作法」(goma books)が今日届きました。本文は、あとまわしにして、まずは「まえがき」の最後。
そこにこうあります。

「本書の内容の大部分は、旧著『私の文章作法』(潮出版社、昭和46年)に含まれているが、或る事情で、或る時期から、この本が姿を消し、誰かのお世話によると、『幻の名著』になってしまった。それが、今度、新しく上木されることになったので、これを機会に、新しく数章を書き加え、また全面的に改訂を施した。  昭和51年12月 」

とありました。現在出ている中公文庫の「私の文章作法」の方が読み安そうな活字の並べかたなのですが、「新しく数章を書き加え」というのが、どんな具合なのか、今度読んでみたいと思うのでした。
さて、それはそれとして、このゴマブックスの表紙カバーの折返し箇所に推薦文が書かれているのでした。表の折返し箇所には外山滋比古氏。裏の折返しには渡部昇一氏。

気になる、その言葉を、ここに引用したいと思います。

まずは、外山滋比古氏から

「文章は料理に似ているのか。すぐれた文章はおいしいご馳走のように、好きだとなったら、もういいということがない。いくらでも、どこまででも付き合いたい。私は年来、清水幾太郎先生の崇拝者で、先生の書かれる文章は愛読して倦むことを知らない。そして読むたびに三歎、何とかすこしでもあやかることはできないかと思う。自然文章についてお書きになるものにはとくに注意するようになっている。文章家で先生ほどみずからの体験を惜しみなく後生にわけ与えてくださる方はすくないが、中でも本書は有益な助言に満ちている。文章作法に心を寄せるほどの人なら、これを見すごすことはできないはずである。」


つぎは、渡部昇一氏

「文章の書き方についての本を書く資格について言えば、清水幾太郎先生に勝る人はほとんどないであろう。戦時中に陸軍徴員として戦地に行っておられた短期間を除いて、この半世紀の間、清水先生の文章は絶えず日本の中にさざ波やら大波やらを起し続けてきた。清水先生の文章は強力な磁場を作り出し、読む人は吸いつけられるか反撥するか、いずれにせよ動かされるのである。また先生は、現代の日本でレトリックの深い価値を認められた唯一の人であると言ってよいであろう。その長い評論・著作活動において、先生の文章は常にみずみずしく印象鮮明である。今その清水先生が文章作法の秘密の一端をここに示された。私も一気に読了して多くのことを教えられた。」


うん。外山滋比古・渡部昇一。
ちなみに、私が買ったこの本は8版。
初版発行が昭和52年1月10日。
8版発行が昭和52年1月15日となっておりました。

ちなみに、中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」については、
山本夏彦の「愚図の大いそがし」と「完本 文語文」の両方の本に
丁寧な内容説明が書かれております。


ということで、外山滋比古・渡部昇一・山本夏彦と三人が
ここに、顔をそろえているのがなんとも壮観。
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信じている。

2010-06-13 | 短文紹介
外山滋比古氏の本を、ぽつぽつと読み始めていると、
外山氏の名前が出てくるのは、気になるのでした。
今日2010年6月13日の毎日新聞「今週の本棚」にある「この人・この3冊」は、外山滋比古選による「内田百」でした。では、そこの文をすこし引用。

「・・・それまで私は小説より随筆を喜び、内外の随筆に親しんだ。イギリスではロバート・リンドが好きだった。日本語では学生のころから寺田寅彦に傾倒、やはり何度も読んだ。文章より、ものの見方、考え方について深く教えられたような気がする。百の随筆は、まず、文章である。明治以後の散文でこれほど洗練され、美しいものはないのと信じている。いわゆる名文などといわれるものではなく、独自のユーモアをたたえている。・・・」

う~ん。私は内田百を読んでいないので、なんとも言えないのですが、「これほど洗練され、美しいものはないと信じている。」なんて、外山氏に書かれると、つい買っときたくなります(笑)。
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