NHKの朝のドラマ「ゲゲゲの女房」は、今週から、雑誌「ガロ」の発行の場面となってきました。そこで、松田哲夫著「編集狂時代」(本の雑誌社)の、その関連箇所へ。
ちなみに松田哲夫氏は1947年10月、東京生まれ。
「1965年秋、ぼくは高校三年生だった。ある日の昼休み、階段教室で、捨てられていた一冊のマンガ雑誌にであった。・・雑誌といえば、いろいろなものが掲載されているのが普通だ。ところが、この『ガロ』ときたら、本文が全百六十ページ、そのうちの百三ページに白土三平さんの『カムイ伝』の連載が載っている。・・・・・・・白土さん、水木さんの作品の強烈な印象もさることながら、『ガロ』という雑誌は、他の雑誌と全然違う味わいをもっていた。はっきり言えば、この雑誌にはデザイン的なセンスがまったく感じられなかった。この時代の雑誌は、今のようにエディトリアル・デザインを、それほど重視してはいなかったが、それにしても、この『ガロ』は当時の雑誌が最低限守っていた文法のようなものすら、まったく無視していた。
マンガ以外のページの文字組みも、縦組みあり、横組みあり、全文ゴチック組みありと千変万化。やたらに行間がきついところがあるかと思えば、意図不明の余白もある。当然、誤植も多い。裏のページがうっすら重なったり、かすれているところもあるように、印刷はお世辞にも綺麗とは言えない。編集者か発行人が、そういうことを、はなから無視してかかっているとしか思えないほど無頓着なものだった。
しかし、この『掲載されている作品が面白ければ、それでいいじゃないか』とでも言わんばかりの徹底した飾りけのなさは、かえって痛快だった。獲れたての飛びっきりいいネタを、特別の調理も盛りつけもせず、そのまま『さあ、食え!』とさしだされたような気持ちよさがあった。翌月からは、発売日が待ち遠しく、貪るように読んだ。・・・」(p48~51)
また、こんな箇所もあります。
「最初に『ガロ』を読んだ時に感じたように、長井さんという人は『作品(内容)こそがすべて』という、きわめてシンプルな編集方針の持ち主だった。そういえば、『ガロ』創刊まもない頃、白土さんが新人マンガ家に呼びかけている。そこに投稿規定があって、『一、面白いこと』『二、内容第一(技術は実験・経験をとおしておのずと進歩するおのです)』と書いてある。長井さんの新人漫画家に対する姿勢は一貫してこの規定にそっていた。
原稿をもって、一人の新人が『ガロ』編集部を訪れたとする。長井さんは、まず原稿をていねいに読んで、内容(ストーリーなど)が面白いかどうかを判断する。そして、『マンガ描くの好きかい?』と聞く。彼によれば『もってきた絵のうまいへたは気にしない。好きで描いてさえいれば、絵というものはうまくなるものだから』という。・・・したがって、『ガロ』に載る新人作品には、うまくない絵、きたない絵、未熟な絵などが多い。しかし、そこから、他では見られない才能が育っていくことも事実だ。こうして長井さん流の、これまた極めてシンプルで確固とした新人発掘術と、その後の書き手に対する暖かい励まし方には、いつも感服させられた。」(p54~55)
このあとに長井勝一さんにふれ、つづいて「妖怪・水木しげるさん」へとつながってゆくのでした。ちなみに松田哲夫さんが水木さんを訪ねた時は、水木さんがすでに「週刊少年マガジン」の「墓場鬼太郎」の連載もはじまって、多忙をきわめていた頃なのだそうです。
ちなみに松田哲夫氏は1947年10月、東京生まれ。
「1965年秋、ぼくは高校三年生だった。ある日の昼休み、階段教室で、捨てられていた一冊のマンガ雑誌にであった。・・雑誌といえば、いろいろなものが掲載されているのが普通だ。ところが、この『ガロ』ときたら、本文が全百六十ページ、そのうちの百三ページに白土三平さんの『カムイ伝』の連載が載っている。・・・・・・・白土さん、水木さんの作品の強烈な印象もさることながら、『ガロ』という雑誌は、他の雑誌と全然違う味わいをもっていた。はっきり言えば、この雑誌にはデザイン的なセンスがまったく感じられなかった。この時代の雑誌は、今のようにエディトリアル・デザインを、それほど重視してはいなかったが、それにしても、この『ガロ』は当時の雑誌が最低限守っていた文法のようなものすら、まったく無視していた。
マンガ以外のページの文字組みも、縦組みあり、横組みあり、全文ゴチック組みありと千変万化。やたらに行間がきついところがあるかと思えば、意図不明の余白もある。当然、誤植も多い。裏のページがうっすら重なったり、かすれているところもあるように、印刷はお世辞にも綺麗とは言えない。編集者か発行人が、そういうことを、はなから無視してかかっているとしか思えないほど無頓着なものだった。
しかし、この『掲載されている作品が面白ければ、それでいいじゃないか』とでも言わんばかりの徹底した飾りけのなさは、かえって痛快だった。獲れたての飛びっきりいいネタを、特別の調理も盛りつけもせず、そのまま『さあ、食え!』とさしだされたような気持ちよさがあった。翌月からは、発売日が待ち遠しく、貪るように読んだ。・・・」(p48~51)
また、こんな箇所もあります。
「最初に『ガロ』を読んだ時に感じたように、長井さんという人は『作品(内容)こそがすべて』という、きわめてシンプルな編集方針の持ち主だった。そういえば、『ガロ』創刊まもない頃、白土さんが新人マンガ家に呼びかけている。そこに投稿規定があって、『一、面白いこと』『二、内容第一(技術は実験・経験をとおしておのずと進歩するおのです)』と書いてある。長井さんの新人漫画家に対する姿勢は一貫してこの規定にそっていた。
原稿をもって、一人の新人が『ガロ』編集部を訪れたとする。長井さんは、まず原稿をていねいに読んで、内容(ストーリーなど)が面白いかどうかを判断する。そして、『マンガ描くの好きかい?』と聞く。彼によれば『もってきた絵のうまいへたは気にしない。好きで描いてさえいれば、絵というものはうまくなるものだから』という。・・・したがって、『ガロ』に載る新人作品には、うまくない絵、きたない絵、未熟な絵などが多い。しかし、そこから、他では見られない才能が育っていくことも事実だ。こうして長井さん流の、これまた極めてシンプルで確固とした新人発掘術と、その後の書き手に対する暖かい励まし方には、いつも感服させられた。」(p54~55)
このあとに長井勝一さんにふれ、つづいて「妖怪・水木しげるさん」へとつながってゆくのでした。ちなみに松田哲夫さんが水木さんを訪ねた時は、水木さんがすでに「週刊少年マガジン」の「墓場鬼太郎」の連載もはじまって、多忙をきわめていた頃なのだそうです。