井上泰至著「子規の内なる江戸」(角川学芸出版)を読んだせいで、何だか、子規の作品にチャレンジできるような気がしてきました。ということで、今日は土屋文明編「子規歌集」(岩波文庫)。以前付箋を貼ってある箇所がありました。
詩をつくる友一人来て青柳に燕飛ぶ画をかきていけり
歌をよみにつどひし人の帰る夜半(よは)を花を催す雨滝の如し
詩人去れば歌人座にあり歌人去れば俳人来り永き日暮れぬ
以上明治33年 (p71~72)
こうして、引用していると、窪田空穂全集月報2を引用したくなります。
そこに「空穂談話Ⅱ」(詩の青春、短歌の青春)があるのでした。
「・・・まえに、ちょっと触れた正岡子規、これは俳句の写生の説で成功した人だから、それを短歌のほうにも移そうとした。短歌には、いかにも写生がなさすぎる、写生ということは、ものを配合させるおもしろさだ、そんな説明でもって、写生が始まった。実景、実感ということには相違ないけれども、その実景、実感にくふうを入れて、ものを配合し、それでおもしろさを出そうとした。それが、実相観入にだんだん移っていった。移らざるを得なかった。万葉調の写生の歌をくり返しているうちに、じつに単純になっていった。
そこへいくと、与謝野鉄幹なんかも、同情できるところがあった。初めは『自我の詩』といった。これは禅宗のことばだ。ところが、当時は、外国文学がじつにさかんで、文学でいえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういった時代。・・・」
子規の歌集をひらくと、
東日本大震災の際に、俳人・長谷川櫂が「震災歌集」を出していたなあ。
などと思ったりします。
窪田空穂全集月報6は「小説を書いたころ」という空穂の談話が載っておりました。
そこを引用。
記者】 小説を書かれてたころのお話をお聞かせいただけませんか。はじめは新体詩をお書きになっていて、歌から小説へといかれたわけですね。
窪田】 いまそんなこというとね、なにか意識的に、変わった飛躍でもするように聞こえるけれども、そのころは、広い意味の文学青年はね、なんだってみんなやったよ。だれだってね。短歌きりつくらないという者は、ひとりもなかった。短歌をつくっている者は、新体詩もつくっていれば、俳句もやってる。文章はむろん書く。そのころの文学青年、みんなそうだった。
詩をつくる友一人来て青柳に燕飛ぶ画をかきていけり
歌をよみにつどひし人の帰る夜半(よは)を花を催す雨滝の如し
詩人去れば歌人座にあり歌人去れば俳人来り永き日暮れぬ
以上明治33年 (p71~72)
こうして、引用していると、窪田空穂全集月報2を引用したくなります。
そこに「空穂談話Ⅱ」(詩の青春、短歌の青春)があるのでした。
「・・・まえに、ちょっと触れた正岡子規、これは俳句の写生の説で成功した人だから、それを短歌のほうにも移そうとした。短歌には、いかにも写生がなさすぎる、写生ということは、ものを配合させるおもしろさだ、そんな説明でもって、写生が始まった。実景、実感ということには相違ないけれども、その実景、実感にくふうを入れて、ものを配合し、それでおもしろさを出そうとした。それが、実相観入にだんだん移っていった。移らざるを得なかった。万葉調の写生の歌をくり返しているうちに、じつに単純になっていった。
そこへいくと、与謝野鉄幹なんかも、同情できるところがあった。初めは『自我の詩』といった。これは禅宗のことばだ。ところが、当時は、外国文学がじつにさかんで、文学でいえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういった時代。・・・」
子規の歌集をひらくと、
東日本大震災の際に、俳人・長谷川櫂が「震災歌集」を出していたなあ。
などと思ったりします。
窪田空穂全集月報6は「小説を書いたころ」という空穂の談話が載っておりました。
そこを引用。
記者】 小説を書かれてたころのお話をお聞かせいただけませんか。はじめは新体詩をお書きになっていて、歌から小説へといかれたわけですね。
窪田】 いまそんなこというとね、なにか意識的に、変わった飛躍でもするように聞こえるけれども、そのころは、広い意味の文学青年はね、なんだってみんなやったよ。だれだってね。短歌きりつくらないという者は、ひとりもなかった。短歌をつくっている者は、新体詩もつくっていれば、俳句もやってる。文章はむろん書く。そのころの文学青年、みんなそうだった。