和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

古風ですが。

2011-09-11 | 短文紹介
読まないで、買って置いてある本。
なあに、いつか読むだろう、という本。
ところで、
唐澤平吉氏のブログ「花森安治の装釘世界」で、
最近たのしみなのは、池島信平氏の登場。
そこに、買いたくなる古本が並んでいる。
でもガマン(笑)。
そこに、「池島信平文集」の写真。
これ、未読ですが、なぜか私の本棚にもありました。
というので、読み齧ろうと、ひらく。

そこに「『杉村楚人冠』を愛読して」と題して、
昭和44年放送の「NHK・FM教養講座」での文がありました。

今回はそこから、引用。

「・・わたしは戦争中でしたか、全集(注:楚人冠)を京都の古本屋でたしか定価五円ぐらいで買ったんです。それにしてもずいぶん安いなア、と思ったんですが、戦争中、一種の閑文学とみられて安かった、ほんとはそうではない、鋭い皮肉で、時弊、時のわるいところを突いた文章がたくさんあるんですが、当時としては、わりに顧みられなかったために、たいへん安く買えたんです。
これに似たような例ですが、そのころわたくしは『新井白石全集』『田口鼎軒全集』をタダみたいな安い値で古本屋で買い、今日でも大切に読んでいます。時流に乗らない本当の古典というものを、どうか見つけていただきたい。今日といえども、この原則は通じます。いわゆるベスト・セラーもいいが、本当にいい本は実はこの中に少ない。古本屋の片隅にホコリをかぶって真の読者を待っている良書が、今日でもどのくらいたくさんあるか分からない。そのように、わたくしは思います。・・」(p238)

また、こんな箇所もありました。

「楚人冠の中に『死児の齢(よわい)』という随筆がありまして、病気で亡くなった息子さんの気持になって、その中に親の気持をこめた名文があります。愛読に堪える文章でありますが、しかし、わたくし、それを読みながらも感ずるのは、その中で震災で一度に亡くなった二人の坊ちゃんのことは殆んど書いていない。書くにしのびないのです。その打撃がいかに深刻なものであったか、文章を書く人が、これを記すに堪えないという点に思い至ると、何とも申し上げようのない気持になるのです。これはなみなみならぬ楚人冠という人の克己の精神、自分にうち克つという気持の現れだと思います。これはものを書く人として、まことにわたくしは景仰すべきことであると、こういうふうに考えるわけなんです。」(p242)


つい、テレビとか映像でいつでも見れる、と思ってしまいがちな昨今ですが、「思い至る」ことの大切さ。

さて、この文章の最後のほうには、こうありました。

「・・一読者として、楚人冠という人を非常になつかしく、その文章をもっともっといまの若い人に読んでいただきたい。文章はすこし古風ですが、非常にわかりやすい、しかものびのびとしたリズムのある文章であります。いわゆるジャーナリストの文章の一つの典型だと思います・・・」(p243)


そういえば、桑原武夫・司馬遼太郎の対談の、どこかで杉村楚人冠への言及があったような気がしたのですが、残念見つからない。
ここから、杉村楚人冠の文章を読んでゆければよいけれど、
今日はここらで撤退。

コメント
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