気仙小学校について2冊の本が気になりました。
1冊目。上部一馬著「奇跡の生還」(コスモ21)には、こうあります。
「防潮堤から2~300メートルくらい離れたところに3階建てコンクリートの気仙小学校がある。菅野祥一郎校長は、高田町で用事を終えた頃、この大地震に遭遇した。『凄い揺れでしたので、学校に戻らねば、と思って、気仙川をまたぐ姉歯橋まで戻ったら、交通規制がかかり、渡れなかったのです。やむなく、もう少し上流にかかる橋を渡って、慌てて学校に戻ったのです。子供たち90人ほどがランドセルを捨て、校庭に上履き姿で先生と避難していました。その時、知り合いのおじちゃんが、これはデッカイ津波が来るぞォ!、とアドバイスしてくれたので、私はすぐ、山に登れ!、と叫んだのです』校庭には、近隣に住む住民も集まっていて150人から200人くらいにまでふくれ上がっていた。『小5、6年の児童は猛スピードで、アスレチック用に使っていた校庭脇の高台に一目散に逃げたのです。これを見た住民のみなさんも後を追って逃げてくれたのです』しかし、防潮堤を超えた津波の速さは、時速50キロメートルはあった。校庭では逃げ遅れた人や車が呑み込まれていった。阿鼻叫喚、恐ろしい光景が出現した。それは崖を十数メートル上って、一息ついた瞬間のことだった。真っ黒い断崖のような波が、アッという間に校舎の3階まで達した。小学校の体育館からは、2度ほど火柱が上がった。漏電が原因のこの火災は一晩中燃え続けた。」(p51~53)
これが印象に残っていたのですが、
三陸新報社「巨震激流」の「その時 72人の証言」に
その気仙小学校のことが出てきます。
寺本道幸さん(陸前高田市気仙町 53歳)の証言
「只越の高台で津波を目の当たりにしました。引き波で只越漁港の堤防が倒れ、家屋が流され、屋根の上に人がいるのを目撃しました。大沢のがれきの山を越え、妻と二人で母親と息子があいる高田を目指しました。途中の寺にはすでに犠牲者が運ばれていて、息子の学校の体育館は燃えていました。子どもたちは、裏山の杉林の中に、先生や保護者たちとうずくまって震えていました。気仙小学校は避難場所です。校庭には近所の人たちも避難していたそうです。津波に備えて一年生から順に裏山の崖を登り、六年の息子は最後でした。息子は言います。『自分の後を、おばあちゃんがお尻を押されて登っていたけど、振り返ったら、真っ黒い水だけだった』。みんなで月山神社に避難しおにぎりを貰いました。・・・」(p125)
1冊目。上部一馬著「奇跡の生還」(コスモ21)には、こうあります。
「防潮堤から2~300メートルくらい離れたところに3階建てコンクリートの気仙小学校がある。菅野祥一郎校長は、高田町で用事を終えた頃、この大地震に遭遇した。『凄い揺れでしたので、学校に戻らねば、と思って、気仙川をまたぐ姉歯橋まで戻ったら、交通規制がかかり、渡れなかったのです。やむなく、もう少し上流にかかる橋を渡って、慌てて学校に戻ったのです。子供たち90人ほどがランドセルを捨て、校庭に上履き姿で先生と避難していました。その時、知り合いのおじちゃんが、これはデッカイ津波が来るぞォ!、とアドバイスしてくれたので、私はすぐ、山に登れ!、と叫んだのです』校庭には、近隣に住む住民も集まっていて150人から200人くらいにまでふくれ上がっていた。『小5、6年の児童は猛スピードで、アスレチック用に使っていた校庭脇の高台に一目散に逃げたのです。これを見た住民のみなさんも後を追って逃げてくれたのです』しかし、防潮堤を超えた津波の速さは、時速50キロメートルはあった。校庭では逃げ遅れた人や車が呑み込まれていった。阿鼻叫喚、恐ろしい光景が出現した。それは崖を十数メートル上って、一息ついた瞬間のことだった。真っ黒い断崖のような波が、アッという間に校舎の3階まで達した。小学校の体育館からは、2度ほど火柱が上がった。漏電が原因のこの火災は一晩中燃え続けた。」(p51~53)
これが印象に残っていたのですが、
三陸新報社「巨震激流」の「その時 72人の証言」に
その気仙小学校のことが出てきます。
寺本道幸さん(陸前高田市気仙町 53歳)の証言
「只越の高台で津波を目の当たりにしました。引き波で只越漁港の堤防が倒れ、家屋が流され、屋根の上に人がいるのを目撃しました。大沢のがれきの山を越え、妻と二人で母親と息子があいる高田を目指しました。途中の寺にはすでに犠牲者が運ばれていて、息子の学校の体育館は燃えていました。子どもたちは、裏山の杉林の中に、先生や保護者たちとうずくまって震えていました。気仙小学校は避難場所です。校庭には近所の人たちも避難していたそうです。津波に備えて一年生から順に裏山の崖を登り、六年の息子は最後でした。息子は言います。『自分の後を、おばあちゃんがお尻を押されて登っていたけど、振り返ったら、真っ黒い水だけだった』。みんなで月山神社に避難しおにぎりを貰いました。・・・」(p125)