和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ちっとやそっと。

2011-09-17 | 詩歌
司馬遼太郎著「坂の上の雲」第一巻の「あとがき」。
そのはじめのほうに、中村草田男がちょっとでてきます。

「・・しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。『降る雪や明治は遠くなりにけり』という、中村草田男の澄みきった色彩世界がもつ明治が、一方にある。・・・」

司馬遼太郎著「『昭和』という国家」(NHK出版)にも
こんな箇所がありました。

「私が『坂の上の雲』という小説を書こうとした動機は、もうちょっと自分で明治を知りたいということでした。動機のうちの、いくつかのひとつに、やはりみなさんご存じの中村草田男(1901~83)の俳句がありました。『降る雪や明治は遠くなりにけり』草田男は明治34年の生まれでしたか、松山の人であります。・・・つまり、『明治は遠くなりにけり』というのは、明治という日本があったと、その明治という日本も遠くなったなということですね。それを草田男が感じたのは、昭和6年だった。激動の時代が始まろうとしている年であります。」(p163・第11章「江戸時代の多様さ」)

たとえば、「坂の上の雲」の「日清戦争」の箇所に、こんな言葉がひろえます。

「国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなくしかもっていないか、もとうにも持ちえない重要な欠陥が、宿命としてあるようにもおもえる。」


ここに、人間像という言葉がありました。
小西甚一著「俳句の世界 発生から現代まで」(講談社学術文庫)の第五章「人間への郷愁」は中村草田男からはじまっておりました。

「たぶん昭和十二三年ごろから十四五年にかけてのことだったと記憶するが、俳壇に『難解派』とか『人間俳句』とかいった呼び名が、すばらしい魅力をもって横行した。・・」とはじまっております。
こうして、小西氏は草田男の『人間』を、こう語っております。

「かれらは、草田男のどこに『よさ』を感じたのか。おそらく、表現としてはわからないながらも、草田男の作品に浸透した『人間』が、かれらをつよく惹きつけたのではないかと想像する。盆栽的な『ホトトギス』派はもちろんとして、近代的な美しさをほこる秋櫻子俳句にも、鋭い知性にみちた誓子の新感覚も、そのなかに『人間』が無い。誓子俳句にも、もとより、素材としての人間はいくらも出てくる。しかし、その人間を視つめる眼が、あまりに非人間的は冷徹さに澄みきって、血のかよった人間の体温が感じられない。あまりにも透明な誓子、それに対して、不透明な草田男の表現が、いきいきと『人間』を描きだすとき、ちっとやそっと意味がわからなくても、俳壇大衆は、つよくそちらに共感せざるをえなかった、それほど、俳壇は人間飢饉だったのである。さらに、かれらを惹きつけたのは、人間を描く草田男のタッチが、これまでの俳句に無かった文藝的感覚をもつことである。」(p329~330)

ということで、「俳句の世界」から「坂の上の雲」のはじまりを展望する、というのもあり。

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