高浜虚子著「俳句とはどんなものか」(角川ソフィア文庫)を読みました。
緒言には「ずっと程度を低くした小学生に教えるくらいの程度の俳話をしてもらいたいというような注文・・この俳句講義は今度それらの要求に応ぜんがために思い立ったものであります。」とあります。
これが、単なる程度の低い話に終わらないのが虚子という人の凄さ。
それはまるで、柔道の取り組みを観戦しているようでもあります。
「私は俳句の文法というようなものはどこまでも軽蔑します。・・・
俳句の文法を検(しら)べたければまず普通に話す我等の言葉の文法からしてお検べなさいと申し上げたいのであります。文法は軽蔑しませんが特に俳句の文法といってことごとしく論をやる人を軽蔑するのであります。・・・」(p66~67)
こうして「切字」の話になります。まるで、グイッとひきよせ、きれいに一本背負いを決めにかかるような単純さ。
きっちりと、こうも語っております。
「私は十七、八歳のころはじめて俳句というものを学んでみる気になったのでありました。それはほかでもありません、一に子規居士の刺激を受けたがためであります。が、そのときですらなお和歌と俳句とを較べますと堂上人(どうじょうびと)と町人のような区別があって和歌は優にやさしきもの、俳句は下卑(げび)た賤(いや)しきものとそう考えておりました。・・・」(p12)
うん。スポーツ観戦のように、たのしく読みました。
緒言には「ずっと程度を低くした小学生に教えるくらいの程度の俳話をしてもらいたいというような注文・・この俳句講義は今度それらの要求に応ぜんがために思い立ったものであります。」とあります。
これが、単なる程度の低い話に終わらないのが虚子という人の凄さ。
それはまるで、柔道の取り組みを観戦しているようでもあります。
「私は俳句の文法というようなものはどこまでも軽蔑します。・・・
俳句の文法を検(しら)べたければまず普通に話す我等の言葉の文法からしてお検べなさいと申し上げたいのであります。文法は軽蔑しませんが特に俳句の文法といってことごとしく論をやる人を軽蔑するのであります。・・・」(p66~67)
こうして「切字」の話になります。まるで、グイッとひきよせ、きれいに一本背負いを決めにかかるような単純さ。
きっちりと、こうも語っております。
「私は十七、八歳のころはじめて俳句というものを学んでみる気になったのでありました。それはほかでもありません、一に子規居士の刺激を受けたがためであります。が、そのときですらなお和歌と俳句とを較べますと堂上人(どうじょうびと)と町人のような区別があって和歌は優にやさしきもの、俳句は下卑(げび)た賤(いや)しきものとそう考えておりました。・・・」(p12)
うん。スポーツ観戦のように、たのしく読みました。