和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

明るい月が。

2011-09-14 | 詩歌
午後6時半に車に乗っていると月が鮮やか。
今日の月は、低くて大きく、明るく黄色がかってます。
そのためか、月のなかのウサギの餅つきが黄緑に見えるのでした。

高浜虚子著「回想 子規・漱石」(岩波文庫)。
高浜虚子著「柿二つ」(永田書房)。
関川夏央著「子規、最後の八年」(講談社)。


この三冊から、子規の亡くなった当日をたどります。

「旧暦ではまだ八月十七日、新暦では明治35年九月十九日になったばかりの午前12時50分頃であった。子規の生涯は満34年と11ヵ月余りであった。」(「子規、最後の八年」p379)


高浜虚子著「子規・漱石」(岩波文庫)では、亡くなる前後が書かれておりました。

「その十八日の夜は皆帰ってしまって、余一人座敷に床を展(の)べて寝ることになった。どうも寝る気がしないので庭に降りて見た。それは十二時頃であったろう。糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛っていた。・・・余も座敷の床の中に這入った。眠ったか眠らぬかと思ううちに、『清さん清さん。』という声が聞こえた。その声は狼狽した声であった。・・・妹君は泣きながら『兄さん兄さん』と呼ばれたが返事がなかった。はだしのままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。
余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門(かど)を出た。その時であった、さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかというような心持がした。
  子規逝くや十七日の月明に
そういう語呂が口のうちに呟かれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。」(p102~104)

高浜虚子著「柿二つ」では、その月夜をどう書いていたか。

「Kはものにはじかれたやうに下駄を突かけて表に出た。
十七夜の月は最前よりも一層冴え渡つてゐた。Kは其時大空を仰いで何物かが其処に動いてゐるやうな心持がした。今迄人間として形容の出来無い迄苦痛を嘗めてゐた彼がもう神とか仏とか名の附くものになつて風の如く軽く自在に今大空に騰(のぼ)りつつあるのではないかといふやうな心持がした。恐ろしいやうな尊いやうな心持がしてぢつと其のものの動くあたりを凝視した。そんな心持で、明る過ぎる許りに明るい道を歩いてゐると、自分の足迄が雲でも踏んでゐるやうにふわふわと取りとめの無いやうな心持がした。
彼の主な門下生の一人として・・・一俳人の家の表に立つた。寝静まつた門も明るい月の下に在つた。Kは・・其戸を叩いた。・・急を告げて又他の一俳人の家に向つた。
其俳人の家も明るい月の下に在つた。同じやうに叩き起して彼の家に取つて返した。・・・」

コメント
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