和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

週刊新潮で文学をつくっている。

2011-09-15 | 短文紹介
子規の本をすこし読み始めると、
小西甚一著「俳句の世界」(講談社学術文庫)が楽しめる。
うん。これで小西甚一が読める(笑)。
ありがたいなあ。
きちんとスジの通った、俳句の水先案内人と出会えたよろこび。

さてっと、その前に、
司馬遼太郎の講演録(朝日新聞社「司馬遼太郎全講演1964~1983」第1巻)。
そこに「週刊誌と日本語」があります。
その途中から引用。

「夏目漱石と正岡子規です。二人の天才は、あらゆることを表現できる文章日本語をつくりだした。・・・彼らがそんなことをしたとは、だれも気づかなかったのでしょうか。彼らの文章は伝承されず、相続されなかった。漱石はまだ相続されたと思うのですが、子規にいたっては、世間の評価は、あれは俳句詠みか歌詠みだろうといったものでした。」

うん。相続されなかった文章日本語の系譜を、たどる楽しみ。

この「週刊誌と日本語」の講演では
西堀栄三郎さんが登場しておりました。

「西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。・・西堀さんは優れた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。桑原さんはこう言った。『だから、おまえさんはだめなんだ。自分の体験してきたことを文章に書かないというのは、非常によくない』
西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
『おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ』
『文章に理系も文系もあるか』
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
『おまえさんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
『「週刊朝日」でもなんでもいいから読め』
週刊誌の話になったのには理由があるんです。・・
この時代に共通の日本語ができつつあったのではないかと桑原さんに言ったところ、桑原さんは言いました。
『週刊誌時代がはじまってからと違うやろか』
昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと言われるものですから、私も意外でした。・・・・
週刊誌はもともと大新聞社が発行していたものです。大新聞社ですから、記事が余ってもったいないじゃないかということになり、『週刊朝日』なり、『サンデー毎日』なりができたそうですね。戦争を経て、昭和30年代になりますと、出版社の新潮社が、よせばいいのに週刊誌を出した。これは大変にカネのかかる、危急存亡にかかわる道楽だったと思うのですが、それが成功しました。するとほかの文藝春秋なども週刊誌を出し始め、大変な乱戦状態になった。・・・・・
私もそのころ、週刊誌というのは不思議なものだなと思っていました。・・・
電車の中で大学の先生も読んでいれば、学生も読んでいる。
国語の先生も読んでいれば、左官の仕事を修業中の青年も読んでいる。
週刊誌を読むという、ひとつの共通の場ができあがったんだなあと思ったことがあります。・・・そのことを桑原さんもおっしゃった。
『週刊誌が共通の文章日本語をつくったことにいささかの貢献をしたのではないか』その次に桑原さんは少し語弊のあることをおっしゃった。
『週刊誌に載っている作家の文章と、週刊誌のトップ記事の文章とは、似てきましたね』・・・・・・」

ちなみにですが、
司馬遼太郎さんの講演に「文章日本語の成立」というのもありまして、
こちらに『週刊新潮』という言葉が出て来ます。

「昭和30年代になって、『週刊新潮』の発行その他で週刊誌というものが非常ににぎやかなものになりましたが、そこに書かれている文章と、作家の文章とが似てくる。それがいけないということじゃなくて、共通・共有のものになてくるということを申しあげたいわけです。」

「桑原さんは、
『「週刊新潮」その他の発行、つまり、割合、質のいい文章の大衆化ということと関係があるんではないか』とおっしゃった。それが冒頭の話とつがながります。いまの日本語の文章は、非常に参加しやすくなっています。これがいいか悪いかは別です。しかし、社会というものは、そういうようにして成熟していくものです。」


うん。ここで「週刊朝日」か「週刊新潮」か。
私は「週刊新潮」に軍配を上げます。
そこで思い浮かぶのは「編集者 齋藤十一」(冬花社)です。

そこに、坂本忠雄氏の「編集という天職」と題した文。
なかに、小林秀雄への言及があります。

「齋藤美和夫人は、小林さんが齋藤(十一)さんが先に亡くなったら、必ず書いてやると言うのを聞かれたそうだが、もはや夢と化した原稿は私など及びもつかぬ、得難い素描が描かれたことだろう。」(p101)

その小林秀雄による齋藤十一氏の素描には、
司馬遼太郎と桑原武夫が指摘する文章日本語へのかかわりにも、触れる箇所があっただろうと、その得難い素描を想像するのでした。

ちなみに、坂本忠雄氏の文には
齋藤氏の言葉として、

「今やさまざまに流布している『「週刊新潮」で文学をつくっている』という言葉を私はじかに聞いたのだ・・・」(p98)
コメント
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