中西輝政著「国民の文明史」を、
とりあえず、うしろの方から読んでいると、
こんな箇所がありました。
「・・極端なたとえをすれば、グローバル・スタンダードなどという言葉は、米英語にはない。アメリカン・スダンダードはあり、ヨーロピアン・スタンダードもある。チャイニーズ・スタンダードもある。しかし、グローバル・スタンダードなどというものは、言葉とともにその観念もない。なぜならば、世界はバラバラにできていることが大前提だからである。しかし、日本人はいつのまにか、『グローバル・スタンダード』という虚偽の日本語をつくってしまい、それでもってある程度国内を動かしてしまった。このことは逆にいえば、いずれ外のものを十分呼吸し終わったと思えたとき、必ず『日本スタンダード』を意識せざるをえないときがくる、ということを意味している。」(p288)
つぎには、こうあります。
「いつも『文化』がやってくるだけで、一緒に征服者が上陸してくることはなかった。これが、日本の文明史にきわめて独特な、おそらく世界に類例のない本質を与えることになった。つまり、外来文化や文明に対する驚くほどの受容性の高さの原因はここにあったのである。また、この過度なほどの受容性の高さ――何でも『まず受け入れる』・・・言い換えれば、日本文明には、まずとりあえず受け入れるが、自らの本質に合わないものは結局、はね返す、という、確固たる『外柔内剛』の構造が大きな特質としてあるのである。」(p302)
そして、『神仏習合が進んだ』ことについて、
「なぜ、そのようなことが平然と行われたのかというと、それは征服者によって強制された受容ではなかったからである。征服され、支配され、受け入れさせられたものには習合、ということはありえない。」(p308)
う~ん。はじめて読むことなので、あれこれ興味がひろがります。
たとえば、わたしにとっては、「何でも『まず受け入れる』」という
部屋のゴタゴタを、掃除する心構え。
ということで、思い浮かんだのが、
受け入れたものの、片づけのことでした。
近藤麻理恵著「人生がときめく片づけの魔法」(サンマーク出版)の
こんな箇所。
「私がお客様のお宅にうかがって一番はじめにするのは、『おうちにごあいさつをすること』です。家の中心あたりの床に正座して、心の中でおうちにそっと話しかけます。名前・住所・職業などの簡単な自己紹介の後、たとえば『佐藤さんとご家族がもっともっと幸せに過ごせる空間がつくれますように』といって、一礼。この二分間の沈黙の儀式を、お客様は不思議そうに見つめています。
このあいさつの習慣は、神社に参拝するときの作法をもとに自然と始めるようになったものです。いつ頃からそうするようになったのか、自分でも定かではないのですが、お客様のおうちのドアを開けるときの緊張感が、神社の鳥居をくぐるときの神聖さに似ていることに気づいたのがきっかけになっていると思います。あいさつなんて気休めだよ、と思われるかもしれませんが、これをやるとやらないとでは、片づけの進むスピードが本当に違うのです。}(p246~247)
ここで連想したのが司馬遼太郎の「この国のかたち」でした。
そこに『神道』という続きの文がありました。
「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在(おわ)す。・・」
ゴタゴタと何でも受け入れた納戸を、
きれいに片づけること。
3.11の関連本読書の一角を清らかにできますように。
とりあえず、うしろの方から読んでいると、
こんな箇所がありました。
「・・極端なたとえをすれば、グローバル・スタンダードなどという言葉は、米英語にはない。アメリカン・スダンダードはあり、ヨーロピアン・スタンダードもある。チャイニーズ・スタンダードもある。しかし、グローバル・スタンダードなどというものは、言葉とともにその観念もない。なぜならば、世界はバラバラにできていることが大前提だからである。しかし、日本人はいつのまにか、『グローバル・スタンダード』という虚偽の日本語をつくってしまい、それでもってある程度国内を動かしてしまった。このことは逆にいえば、いずれ外のものを十分呼吸し終わったと思えたとき、必ず『日本スタンダード』を意識せざるをえないときがくる、ということを意味している。」(p288)
つぎには、こうあります。
「いつも『文化』がやってくるだけで、一緒に征服者が上陸してくることはなかった。これが、日本の文明史にきわめて独特な、おそらく世界に類例のない本質を与えることになった。つまり、外来文化や文明に対する驚くほどの受容性の高さの原因はここにあったのである。また、この過度なほどの受容性の高さ――何でも『まず受け入れる』・・・言い換えれば、日本文明には、まずとりあえず受け入れるが、自らの本質に合わないものは結局、はね返す、という、確固たる『外柔内剛』の構造が大きな特質としてあるのである。」(p302)
そして、『神仏習合が進んだ』ことについて、
「なぜ、そのようなことが平然と行われたのかというと、それは征服者によって強制された受容ではなかったからである。征服され、支配され、受け入れさせられたものには習合、ということはありえない。」(p308)
う~ん。はじめて読むことなので、あれこれ興味がひろがります。
たとえば、わたしにとっては、「何でも『まず受け入れる』」という
部屋のゴタゴタを、掃除する心構え。
ということで、思い浮かんだのが、
受け入れたものの、片づけのことでした。
近藤麻理恵著「人生がときめく片づけの魔法」(サンマーク出版)の
こんな箇所。
「私がお客様のお宅にうかがって一番はじめにするのは、『おうちにごあいさつをすること』です。家の中心あたりの床に正座して、心の中でおうちにそっと話しかけます。名前・住所・職業などの簡単な自己紹介の後、たとえば『佐藤さんとご家族がもっともっと幸せに過ごせる空間がつくれますように』といって、一礼。この二分間の沈黙の儀式を、お客様は不思議そうに見つめています。
このあいさつの習慣は、神社に参拝するときの作法をもとに自然と始めるようになったものです。いつ頃からそうするようになったのか、自分でも定かではないのですが、お客様のおうちのドアを開けるときの緊張感が、神社の鳥居をくぐるときの神聖さに似ていることに気づいたのがきっかけになっていると思います。あいさつなんて気休めだよ、と思われるかもしれませんが、これをやるとやらないとでは、片づけの進むスピードが本当に違うのです。}(p246~247)
ここで連想したのが司馬遼太郎の「この国のかたち」でした。
そこに『神道』という続きの文がありました。
「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在(おわ)す。・・」
ゴタゴタと何でも受け入れた納戸を、
きれいに片づけること。
3.11の関連本読書の一角を清らかにできますように。