馬場マコト著「花森安治の青春」(白水社・2300円)を読了。
文が句読点で短く、テンポが軽快で澱みなく読めました。
よく咀嚼した内容を、簡潔に歯切れよくさばいてゆく文章運び。
なんとも、安心して読めました。
時代運びも、こんな感じです。
「映画堂々隊の副隊長が、中学をやめてブラジルへいったのは、安治が中学四年のときだった。前年、1927(昭和2年)に・・・・移民熱が一気に神戸の町中に吹き荒れた。・・・
副隊長から手紙が来ることはなかった。全国の中学で軍事教練が行われることになったのは、それからすぐだった。」(p20~22)
ちなみに映画堂々隊というのは「中学の映画好きが集まって、学生服のまま、かばんを斜めに掛けて堂々と隊を組んで新開地の松竹座に出かけた。映画堂々隊と名乗った」(p17)とあります。
母親(よしの)の亡くなることにふれて
「よしのが38歳の若さで死んだのは安治が高校一年生の夏休みのことだった。床に臥したよしのは・・『あんた将来なにしたい』と聞いた。・・・『新青年』が横溝正史という編集者になった途端、表紙も内容もがらりと変ったことを安治はよく知っていた。自分の美意識と、自分の感覚で自分だけの世界観を創り上げてしまう仕事だ。そう、編集者がいい。『新聞記者か、編集者になる』たずねた母・・・『ふーん』と言ったまま黙ってしまった。・・・」(p37)
大学に入ってからが、読み応えがあります。
新聞部に入部
「日曜日は数寄屋橋の朝日新聞社に出張校正に出向いた。・・安治が在学のころは、大学新聞の印刷は朝日新聞社に委託していたからだ。」
「一年生で十円、二年生で十五円、三年生で二十円の手当てが月々出た。編集室に行けば昼は一食十五銭の食事が取れた。結果、安治は最初に受講手続きをとった美学科の授業にはまったく出席せず、大学生のほとんどをしめった匂いのする編集室で過ごした。・・・・安治の余白の妙に朝日新聞の整理部が驚いた。さっそくあの紙面はだれがつくったのか会いたいという電話がかかった。そんなことが三回くらいあった。・・・」
うん。私見ですが、今の朝日新聞は記事よりも、広告もいれての紙面づくりが手馴れていて、こりゃ困ったものだと写ります。あるいは、そのルーツは花森安治だったのだろうか?
そして大学時代のエポック。
「二・二六事件に驚愕した世間なのに、一般紙やら論壇からはなにも批判の声が上がらなかった。なにかを言うことを憚る雰囲気が日本全土を襲っていた。そのなかで唯一批判したのが帝大新聞であり、河合栄治郎だった。」(p78)
こんな出会いもあります。
「安治が佐野繁次郎と初めて会ったのは、帝大新聞に入ってすぐの1933年6月のことだった。・・・大阪船場の筆墨商の息子に生まれた佐野繁次郎は小さなころから絵筆を握り、その才能を発揮した。パリに渡ってアンリ・マチスに師事、ミロとも交友をもった自由人だった。安治は帝大新聞で文芸担当となった以上、前から憧れていた佐野にぜひ絵と文章を書いてほしいと申し出た。」(p81)
「安治の求めに気軽に応じた。芸術とはどうあるべきかを問うのではなく、どこまでできるかを問うものだと、西鶴と上田秋成を例に随筆『この頃』を書いた。・・」(p84)
召集令状も安治に来るのでした。
満州へ行きます。
「帰りたい。帰れない。そんなとき、首にかかった認識票が気になった。『靖国神社直行』。それが日本に帰る一番確実で、一番の早道に違いなかった。」(p98)
ここいらからが、この本の眼目なのでしょうが、
それは読んでのお楽しみ。
ということで、とばして、
戦後へといきましょう。
「暮しの手帖」のまえに「スタイルブック」がでます。
「安治が直線裁ちのデザインをおこした。報研から譲り受けた大きな机を裁縫台にして、古い着物をほどいて裁つのは鎭子の役目だ。そしてそれを母久子が縫いあげた。戦前から和洋裁をこなしてきた久子の手早さといったらなかった。安治が描くデザインはたちまち一時間後には新しいスタイルの服になった。そのできあがった服を着て、芳子が安治の前に立った。・・・」(p198)
そして、いよいよ
「執筆人のそれぞれの明日も見えぬまま、『暮しの手帖』創刊号は編集を終えた。」(p214)
最後のほう、著者は、こう書くのでした。
「このとき安治は恐らく安治の生涯で唯一の間違いをした。
『一銭五厘を出す側』でもあったことを隠して、『一銭(金偏なし)五厘は ぼくらだ 君らだ』としたことだ。」(p230)
あとがきでは
「昭和を代表する思想家の一人であった花森安治。かつて宗教以外で百万人に届こうとする支持者を得る、このような思想集団はなかった。だからこそ花森安治には・・・」(p250)
うん。おあとは読んでのお楽しみ。
うんうん。昭和の思想家といえば、
それじゃ、平成の思想家は。
ということで、また中西輝政を読みに戻ろう。
文が句読点で短く、テンポが軽快で澱みなく読めました。
よく咀嚼した内容を、簡潔に歯切れよくさばいてゆく文章運び。
なんとも、安心して読めました。
時代運びも、こんな感じです。
「映画堂々隊の副隊長が、中学をやめてブラジルへいったのは、安治が中学四年のときだった。前年、1927(昭和2年)に・・・・移民熱が一気に神戸の町中に吹き荒れた。・・・
副隊長から手紙が来ることはなかった。全国の中学で軍事教練が行われることになったのは、それからすぐだった。」(p20~22)
ちなみに映画堂々隊というのは「中学の映画好きが集まって、学生服のまま、かばんを斜めに掛けて堂々と隊を組んで新開地の松竹座に出かけた。映画堂々隊と名乗った」(p17)とあります。
母親(よしの)の亡くなることにふれて
「よしのが38歳の若さで死んだのは安治が高校一年生の夏休みのことだった。床に臥したよしのは・・『あんた将来なにしたい』と聞いた。・・・『新青年』が横溝正史という編集者になった途端、表紙も内容もがらりと変ったことを安治はよく知っていた。自分の美意識と、自分の感覚で自分だけの世界観を創り上げてしまう仕事だ。そう、編集者がいい。『新聞記者か、編集者になる』たずねた母・・・『ふーん』と言ったまま黙ってしまった。・・・」(p37)
大学に入ってからが、読み応えがあります。
新聞部に入部
「日曜日は数寄屋橋の朝日新聞社に出張校正に出向いた。・・安治が在学のころは、大学新聞の印刷は朝日新聞社に委託していたからだ。」
「一年生で十円、二年生で十五円、三年生で二十円の手当てが月々出た。編集室に行けば昼は一食十五銭の食事が取れた。結果、安治は最初に受講手続きをとった美学科の授業にはまったく出席せず、大学生のほとんどをしめった匂いのする編集室で過ごした。・・・・安治の余白の妙に朝日新聞の整理部が驚いた。さっそくあの紙面はだれがつくったのか会いたいという電話がかかった。そんなことが三回くらいあった。・・・」
うん。私見ですが、今の朝日新聞は記事よりも、広告もいれての紙面づくりが手馴れていて、こりゃ困ったものだと写ります。あるいは、そのルーツは花森安治だったのだろうか?
そして大学時代のエポック。
「二・二六事件に驚愕した世間なのに、一般紙やら論壇からはなにも批判の声が上がらなかった。なにかを言うことを憚る雰囲気が日本全土を襲っていた。そのなかで唯一批判したのが帝大新聞であり、河合栄治郎だった。」(p78)
こんな出会いもあります。
「安治が佐野繁次郎と初めて会ったのは、帝大新聞に入ってすぐの1933年6月のことだった。・・・大阪船場の筆墨商の息子に生まれた佐野繁次郎は小さなころから絵筆を握り、その才能を発揮した。パリに渡ってアンリ・マチスに師事、ミロとも交友をもった自由人だった。安治は帝大新聞で文芸担当となった以上、前から憧れていた佐野にぜひ絵と文章を書いてほしいと申し出た。」(p81)
「安治の求めに気軽に応じた。芸術とはどうあるべきかを問うのではなく、どこまでできるかを問うものだと、西鶴と上田秋成を例に随筆『この頃』を書いた。・・」(p84)
召集令状も安治に来るのでした。
満州へ行きます。
「帰りたい。帰れない。そんなとき、首にかかった認識票が気になった。『靖国神社直行』。それが日本に帰る一番確実で、一番の早道に違いなかった。」(p98)
ここいらからが、この本の眼目なのでしょうが、
それは読んでのお楽しみ。
ということで、とばして、
戦後へといきましょう。
「暮しの手帖」のまえに「スタイルブック」がでます。
「安治が直線裁ちのデザインをおこした。報研から譲り受けた大きな机を裁縫台にして、古い着物をほどいて裁つのは鎭子の役目だ。そしてそれを母久子が縫いあげた。戦前から和洋裁をこなしてきた久子の手早さといったらなかった。安治が描くデザインはたちまち一時間後には新しいスタイルの服になった。そのできあがった服を着て、芳子が安治の前に立った。・・・」(p198)
そして、いよいよ
「執筆人のそれぞれの明日も見えぬまま、『暮しの手帖』創刊号は編集を終えた。」(p214)
最後のほう、著者は、こう書くのでした。
「このとき安治は恐らく安治の生涯で唯一の間違いをした。
『一銭五厘を出す側』でもあったことを隠して、『一銭(金偏なし)五厘は ぼくらだ 君らだ』としたことだ。」(p230)
あとがきでは
「昭和を代表する思想家の一人であった花森安治。かつて宗教以外で百万人に届こうとする支持者を得る、このような思想集団はなかった。だからこそ花森安治には・・・」(p250)
うん。おあとは読んでのお楽しみ。
うんうん。昭和の思想家といえば、
それじゃ、平成の思想家は。
ということで、また中西輝政を読みに戻ろう。