中西輝政著「日本人が知らない世界と日本の見方」は、2008年に行われた京都大学総合人間学部での講義をまとめたもので、本文の最初にPHP研究所から説明があるのでした。そこには
「・・長年にわたり国際政治学、外交・文明論の観点から日本人を啓発されてきた先生のお話は、社会人を含めて聴講希望者が多く、講義録を求める声が多数寄せられました。・・・」
そこから、私に思い浮かんだのは、
「一度、江藤の講義を聴こうじゃないか」という石原慎太郎氏の言葉でした。以下、それについてのあれこれ。
中央公論特別編集と銘打った「江藤淳1960」(中央公論新社)が出ておりました。立読み風パラパラめくり読み。するとそこに、2011年9月におこなわれた石原慎太郎氏の「特別インタビュー」。
「60年安保の渦中で」という箇所があります。
そこからすこし
「あのころ珍しく、テレビで討論じゃないけれど、各党の党首が安保改定の是非について演説をした。自民党の岸信介は実に明晰で説得力があった。それに対して社会党の浅沼稲二郎は支離滅裂で、さっぱりわからなかった。浅沼はとにかく中共かぶれで、59年に訪中して、『アメリカ帝国主義は日中共同の敵』なんて馬鹿な発言をして、帰国のときには人民帽を被って羽田へ降りたんだ。・・・民社党の西尾末廣も滔々としゃべるんだけど、これも何をいっているかさっぱりわからない。野党の演説を聴いて、安保反対もいい加減なものだなと思った。人相がよくないけど、やっぱり岸はたいしたものだったな。
で、誰がいい出したのか忘れたが『どうも安保条約って、わかったようでわかってない。一度、江藤の講義を聴こうじゃないか』ということになった。『若い日本の会』に参加していた人間の中で、安保条約の改定前・改定後の条文を詳しく読んでいたのは江藤だけだった。
実際、日本文藝協会の理事会でも、こんなことがあった。定例会議の案件が審議されて時間が余ったので、丹羽文雄理事長が『議決が終わりましたが、まだ時間もございますので、みなさんついでに安保反対の決議をしましょうか』といった。すると、尾崎士郎が『いや、丹羽君、僕は賛成だぞ。なんで君、反対なの?』と質した。つづいて林房雄が『尾崎、お前もそうか。俺も賛成だ。丹羽君、反対なら反対で理由をいえよ』と迫った。そうしたら、丹羽はもうメロメロになって『それじゃ、この辺で』って散会になっちゃったんだ。そんな時代だったんだよ。そのときの江藤の講義は、非常に明快でわかりやすいものだった。・・・」(p180)
ちょうど、産経新聞2011年10月24日の「正論」に、
平川祐弘氏が「丸山真男去りて江藤淳来たる」という文。
その後半の箇所を引用。
「江藤は丸山を代表とする戦後知識人が、敗戦の屈辱を直視せず『自由な主体』成立のチャンスだと理想だか空想だかの世界に閉じこもることを批判する。戦勝国側の政治的思惑もあって語られた『平和』と『民主主義』を永遠の理想の登場のように思い込むのは欺瞞ではないか。・・・・
これは、角田柳作編の英文『日本思想原典』を米プリンストン大学で学ぶうちに、少年として日本の敗戦と国家の崩壊を目の当たりにした江藤が、本来は喪失感を出発点に据えなくてはならぬという自覚に達したからだろう。そんな江藤は、丸山一派と違って、明治以来の日本の歴史を全否定するような観念的な見方はしなかった。」
角田柳作といえば、ドナルド・キーン氏の先生じゃありませんか。
ついでに、この文の最後の箇所も引用しておきます。
「1960年の安保反対で国会周辺で荒れた学生を丸山は民主主義の勝利のように讃えた。だが、その同じ学生が68年、東大法学部を襲うや、丸山は今度は『暴徒だ』と憤慨した。私は東大教養学部にいて年中行事の学生のストや集団ヒステリーには慣れていたから、学生運動を理想化する気持ちはおよそない。辞職する丸山教授を8年前に学生を煽動する自業自得と見ていた。授業再開となるや、東大非常勤に私は江藤淳を招いた。江頭淳夫(えがしらあつお)とわざと本名で紹介すると満場の学生がどっと沸いた。・・江藤が東工大教授昇格の際に、『国士の面影があり』と推薦文に書いたことなど懐かしく思い出した次第だ。」
「・・長年にわたり国際政治学、外交・文明論の観点から日本人を啓発されてきた先生のお話は、社会人を含めて聴講希望者が多く、講義録を求める声が多数寄せられました。・・・」
そこから、私に思い浮かんだのは、
「一度、江藤の講義を聴こうじゃないか」という石原慎太郎氏の言葉でした。以下、それについてのあれこれ。
中央公論特別編集と銘打った「江藤淳1960」(中央公論新社)が出ておりました。立読み風パラパラめくり読み。するとそこに、2011年9月におこなわれた石原慎太郎氏の「特別インタビュー」。
「60年安保の渦中で」という箇所があります。
そこからすこし
「あのころ珍しく、テレビで討論じゃないけれど、各党の党首が安保改定の是非について演説をした。自民党の岸信介は実に明晰で説得力があった。それに対して社会党の浅沼稲二郎は支離滅裂で、さっぱりわからなかった。浅沼はとにかく中共かぶれで、59年に訪中して、『アメリカ帝国主義は日中共同の敵』なんて馬鹿な発言をして、帰国のときには人民帽を被って羽田へ降りたんだ。・・・民社党の西尾末廣も滔々としゃべるんだけど、これも何をいっているかさっぱりわからない。野党の演説を聴いて、安保反対もいい加減なものだなと思った。人相がよくないけど、やっぱり岸はたいしたものだったな。
で、誰がいい出したのか忘れたが『どうも安保条約って、わかったようでわかってない。一度、江藤の講義を聴こうじゃないか』ということになった。『若い日本の会』に参加していた人間の中で、安保条約の改定前・改定後の条文を詳しく読んでいたのは江藤だけだった。
実際、日本文藝協会の理事会でも、こんなことがあった。定例会議の案件が審議されて時間が余ったので、丹羽文雄理事長が『議決が終わりましたが、まだ時間もございますので、みなさんついでに安保反対の決議をしましょうか』といった。すると、尾崎士郎が『いや、丹羽君、僕は賛成だぞ。なんで君、反対なの?』と質した。つづいて林房雄が『尾崎、お前もそうか。俺も賛成だ。丹羽君、反対なら反対で理由をいえよ』と迫った。そうしたら、丹羽はもうメロメロになって『それじゃ、この辺で』って散会になっちゃったんだ。そんな時代だったんだよ。そのときの江藤の講義は、非常に明快でわかりやすいものだった。・・・」(p180)
ちょうど、産経新聞2011年10月24日の「正論」に、
平川祐弘氏が「丸山真男去りて江藤淳来たる」という文。
その後半の箇所を引用。
「江藤は丸山を代表とする戦後知識人が、敗戦の屈辱を直視せず『自由な主体』成立のチャンスだと理想だか空想だかの世界に閉じこもることを批判する。戦勝国側の政治的思惑もあって語られた『平和』と『民主主義』を永遠の理想の登場のように思い込むのは欺瞞ではないか。・・・・
これは、角田柳作編の英文『日本思想原典』を米プリンストン大学で学ぶうちに、少年として日本の敗戦と国家の崩壊を目の当たりにした江藤が、本来は喪失感を出発点に据えなくてはならぬという自覚に達したからだろう。そんな江藤は、丸山一派と違って、明治以来の日本の歴史を全否定するような観念的な見方はしなかった。」
角田柳作といえば、ドナルド・キーン氏の先生じゃありませんか。
ついでに、この文の最後の箇所も引用しておきます。
「1960年の安保反対で国会周辺で荒れた学生を丸山は民主主義の勝利のように讃えた。だが、その同じ学生が68年、東大法学部を襲うや、丸山は今度は『暴徒だ』と憤慨した。私は東大教養学部にいて年中行事の学生のストや集団ヒステリーには慣れていたから、学生運動を理想化する気持ちはおよそない。辞職する丸山教授を8年前に学生を煽動する自業自得と見ていた。授業再開となるや、東大非常勤に私は江藤淳を招いた。江頭淳夫(えがしらあつお)とわざと本名で紹介すると満場の学生がどっと沸いた。・・江藤が東工大教授昇格の際に、『国士の面影があり』と推薦文に書いたことなど懐かしく思い出した次第だ。」