馬場マコト著「花森安治の青春」(白水社)のあとがきに、
「昭和を代表する思想家の一人であった花森安治。」(p250)とあるのでした。
杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア・2006年)に
インタビューに答えている杉山平一氏の、貴重な肉声が伝わるような受け応えが読めるのでした。そこに、こんな箇所があるのでした。
「花森の行動は、ぼくは、思想というよりも、彼の体質から来ていると思います。みなそこのとこ間違えると思いますけれど――たとえば、保田与重郎なんて人は左翼でしたよね、高等学校の時分は。それが右翼になったでしょ。みんな気質です。いつでも反対してる人がいます。戦争中に反対してて、民主主義にも文句言って。
思想というようりも体質やな。グチを言う体質。いつでも反対して文句ばっかり言ってるやつ。それは思想と違いますやろ?全部が全部そうじゃないけども、ぼくは友達見てたらね、いつでも文句言うとるやつは文句言うとる。」(p263~264)
ちょっと、一部だけ引用すると誤解されやすいなあ。
なんとも気さくというか、自然体のインタビューへの回答なのです。
たとえば、こんな箇所。
「私は工場にいたせいもありますからね、やっぱり大阪というところはね、岩波文庫持ってるやつは何を気取っているのやアホかっていう空気があるんですわ。芸術なんてお金儲けになんにもならない。バカにされる。ぜんぜん関心もってくれない。・・・・
あまりはっきり覚えてませんが、花森は、『暮しの手帖』は、八号(昭和25年)くらいで売れなかったら辞めると言いました。はじめは赤字つづきだったようです。その八号目ぐらいやったんかな、花森ぼくに言いましたわ。『阪神間の夙川というところでものすごく売れ出したんだ』って。夙川ってのは、芦屋の隣で、山の手的なところですわ。知的な女の人たちが、買いはじめたんですかな。それから伸び出したんでしょう?・・・」(p265~266)
もう少し引用。
「私、東京に行くたびに、花森のところへ訪ねていきました。麻布のほうの編集部に。ひさしぶりに会うと、楽しく、昔の話をしてね。帰りがけ、大橋鎭子さんが近寄ってきて、ぼくに『花森さんのあんな顔見たことない。あんな愉快そうな笑い顔を見たことありませんでした』言うてね、ぼくはちょっとうれしかったなあ。編集ではやっぱり『鬼がわら』で、きつい顔しておったんですなあ。きびしかったんやなあ、みんなには。」
ちなみに、杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)を楽しく読んだ方は、この「詩と生きるかたち」も、その続編として読めますよ。たとえば、藤澤恒夫氏について書かれた箇所では。
「作家というのは悪いクセを直したらだめなんや、それはその人の生命なんやとか。まあ、いろいろおもしろこといわれました。書き続けろ、何でもいい毎日書き続けろといわれました。そうでないと、ハガキ一枚書くのもしんどくなってしまう。文学は習慣だってね。非常にウイットに富んで、愛想がよくて、相手をそらさないように・・・大阪人ですわね。」(p206)
「昭和を代表する思想家の一人であった花森安治。」(p250)とあるのでした。
杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア・2006年)に
インタビューに答えている杉山平一氏の、貴重な肉声が伝わるような受け応えが読めるのでした。そこに、こんな箇所があるのでした。
「花森の行動は、ぼくは、思想というよりも、彼の体質から来ていると思います。みなそこのとこ間違えると思いますけれど――たとえば、保田与重郎なんて人は左翼でしたよね、高等学校の時分は。それが右翼になったでしょ。みんな気質です。いつでも反対してる人がいます。戦争中に反対してて、民主主義にも文句言って。
思想というようりも体質やな。グチを言う体質。いつでも反対して文句ばっかり言ってるやつ。それは思想と違いますやろ?全部が全部そうじゃないけども、ぼくは友達見てたらね、いつでも文句言うとるやつは文句言うとる。」(p263~264)
ちょっと、一部だけ引用すると誤解されやすいなあ。
なんとも気さくというか、自然体のインタビューへの回答なのです。
たとえば、こんな箇所。
「私は工場にいたせいもありますからね、やっぱり大阪というところはね、岩波文庫持ってるやつは何を気取っているのやアホかっていう空気があるんですわ。芸術なんてお金儲けになんにもならない。バカにされる。ぜんぜん関心もってくれない。・・・・
あまりはっきり覚えてませんが、花森は、『暮しの手帖』は、八号(昭和25年)くらいで売れなかったら辞めると言いました。はじめは赤字つづきだったようです。その八号目ぐらいやったんかな、花森ぼくに言いましたわ。『阪神間の夙川というところでものすごく売れ出したんだ』って。夙川ってのは、芦屋の隣で、山の手的なところですわ。知的な女の人たちが、買いはじめたんですかな。それから伸び出したんでしょう?・・・」(p265~266)
もう少し引用。
「私、東京に行くたびに、花森のところへ訪ねていきました。麻布のほうの編集部に。ひさしぶりに会うと、楽しく、昔の話をしてね。帰りがけ、大橋鎭子さんが近寄ってきて、ぼくに『花森さんのあんな顔見たことない。あんな愉快そうな笑い顔を見たことありませんでした』言うてね、ぼくはちょっとうれしかったなあ。編集ではやっぱり『鬼がわら』で、きつい顔しておったんですなあ。きびしかったんやなあ、みんなには。」
ちなみに、杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)を楽しく読んだ方は、この「詩と生きるかたち」も、その続編として読めますよ。たとえば、藤澤恒夫氏について書かれた箇所では。
「作家というのは悪いクセを直したらだめなんや、それはその人の生命なんやとか。まあ、いろいろおもしろこといわれました。書き続けろ、何でもいい毎日書き続けろといわれました。そうでないと、ハガキ一枚書くのもしんどくなってしまう。文学は習慣だってね。非常にウイットに富んで、愛想がよくて、相手をそらさないように・・・大阪人ですわね。」(p206)