曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)の第3章は「『想定外』との対峙」となっており、この章は具体的で参考になり、それが印象に残ります。
たとえば、
「非常時用の握り飯は必ず梅干しを入れなければならない。・・ことに少し温かいうちにラップに包んだお握りは危険だ。・・被災地に配る握り飯は扱い方によっては危険を孕んでいるはずである。」(p102)
「『停電になったら冷蔵庫の扉を開けてはいけない』ということなのである。アフリカの多くの土地では電気もなく、電灯はあっても冷蔵庫などない家も多いのだが、たまに冷蔵庫を持っている人は、停電だらけの毎日の中で冷蔵庫の使い方にも長(た)けていて、私はこのことを習ったのである。しかし多くの日本人は停電時の冷蔵庫の使い方も知らないのである。」(p93)
そのアフリカについては、こう説明しておりました。
「私が1972年に始めた海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)は、貧しい途上国で働くシスターたちの事業を支援する組織だった・・・・私はほとんど毎年のようにアフリカに出かけていたのである。その旅行は最悪の場合は、途上国の首都からさらに数百キロも離れた奥地だから・・・石鹸や裁縫道具、ソックスなどを忘れて来ても、ほとんど買える店はなかった。懐中電灯を肌身離さず持ち歩いて・・・」(p111~112)
さって、このあとに、曽野さんはこう書いております。
「だから私は一度、南極越冬隊の装備を手がけてみたいとさえ思ったことがある。」(p113)
うん。南極越冬といえば、西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)があるじゃありませんか。ということで以下は、南極越冬隊について。
ここでは西堀栄三郎の「新版 石橋を叩けば渡れない。」(生産性出版)から引用してみます。
「私が南極のことを一番よく知ってることから、私に南極越冬の命令がくだったわけです。そうはいうものの、私の知識にしたところで、日本の中ではよく勉強しているというだけで、実はほんとにわずかなものです。だから私たちは、ほとんど未知のところへ行く準備をしなければならない。さあ困りました。」(p33)
「・・準備する品物が、何を持って行ったらいいものか、何を忘れたら困るのか、さっぱりわかりません。そこで自分でもやり、またみんなにも手伝ってもらいましたが、手分けしてデパートへ行き、これもいるな、あれもいるな、と手帳に書いてくることにしました。そのとき驚いたことは、頭のいい男がおおぜいで調べに行ってくれたのに、私の帳面が一番こまかく書いてある。これはどうしてだろう、私の頭が一番いいのか?そんなことはありません。若い人たちの方がずっと頭もいいし、元気もあります。ちがう点は、私が、忘れたら大変だという心が一番強かったわけです。ほかの人は私ほど責任感を持っていない、だから普通に見てくる。私は普通以上に見て、その裏の裏を考えて書かなければならない。いわゆる責任感というものがいかに大事かということをつくづく感じました。」(p35)
では、南極へ行ってみて、どうだったか?
ということで、「南極越冬記」からは、ひとつだけ引用。
「朝食後、片対数方眼紙をさがしたがない。研究用品の不足なのには、ほとほとこまったものである。昨夜計算した数値をグラフに書けないのが残念だ。研究用品の不足で、このほか、こまったのは、ピペットがないことだ。だから滴定ができない。これはまったくひどい話だが、わたしにも責任がある。準備のときに、わたしは化学研究用品については、こう言った。旧制高等学校の化学分析に使う程度の試薬は全部そろえてもらいたい、それから化学天秤は必要だ、と。わたしは、とくに、定量分析のことには言及しなかったのだ。そしたら、滴定用のピペットが入っていなかった。じつは、わたしは、自分用のコマゴマした研究用道具を入れた箱を、用意していた。ところが、どうしたわけか、その箱が文部省の南極観測本部の部屋に置かれたままになってしまった。その中には、ずいぶんいろいろなものが入れてあった。それさえあれば、そうとう助かったのだ。・・・・ほんとうは、だいじな箱なら、ちゃんと自分でもって来なければいけなかった。わたしは、いそがしさにまぎれて、人に頼んだ。それがいけなかった。忘れたというのだ。」(p108~109)
また、「石橋を叩けば渡れない」より引用させてください。
「・・いろいろなことがわかってきます。それがわからない間はすべてに用心しなければならない。だから物事をやるとき、第一回目と第二回目では大変なちがいがあるのです。しかし、二回目と三回目ではもうほとんどちがいはなくなります。
その証拠に、私たち第一回の越冬隊の連中は、家族と泣きの涙で別れてきました。生きて帰るか死んで帰るか、いや死んだら死骸さえ帰って来られんかもしれないのです。ワンワン泣きながら、別れました。そういう第一回目の越冬隊員の別れにくらべて、二回目の人たちが別れるときは、はあ行ってきます、とまるでピクニックにでも行くような調子でした。一回目の人たちの不安や、悲壮さは、もう二回目の人たちにはありませんでした。それほど、未知ということはこわいものです。」(p37~38)
うん。じつは「南極越冬記」の「カブースの火事」をすこし引用したかったのですが、まあ、こう書いておけば、また読んでみたいときは、めくってみるでしょう。
たとえば、
「非常時用の握り飯は必ず梅干しを入れなければならない。・・ことに少し温かいうちにラップに包んだお握りは危険だ。・・被災地に配る握り飯は扱い方によっては危険を孕んでいるはずである。」(p102)
「『停電になったら冷蔵庫の扉を開けてはいけない』ということなのである。アフリカの多くの土地では電気もなく、電灯はあっても冷蔵庫などない家も多いのだが、たまに冷蔵庫を持っている人は、停電だらけの毎日の中で冷蔵庫の使い方にも長(た)けていて、私はこのことを習ったのである。しかし多くの日本人は停電時の冷蔵庫の使い方も知らないのである。」(p93)
そのアフリカについては、こう説明しておりました。
「私が1972年に始めた海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)は、貧しい途上国で働くシスターたちの事業を支援する組織だった・・・・私はほとんど毎年のようにアフリカに出かけていたのである。その旅行は最悪の場合は、途上国の首都からさらに数百キロも離れた奥地だから・・・石鹸や裁縫道具、ソックスなどを忘れて来ても、ほとんど買える店はなかった。懐中電灯を肌身離さず持ち歩いて・・・」(p111~112)
さって、このあとに、曽野さんはこう書いております。
「だから私は一度、南極越冬隊の装備を手がけてみたいとさえ思ったことがある。」(p113)
うん。南極越冬といえば、西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)があるじゃありませんか。ということで以下は、南極越冬隊について。
ここでは西堀栄三郎の「新版 石橋を叩けば渡れない。」(生産性出版)から引用してみます。
「私が南極のことを一番よく知ってることから、私に南極越冬の命令がくだったわけです。そうはいうものの、私の知識にしたところで、日本の中ではよく勉強しているというだけで、実はほんとにわずかなものです。だから私たちは、ほとんど未知のところへ行く準備をしなければならない。さあ困りました。」(p33)
「・・準備する品物が、何を持って行ったらいいものか、何を忘れたら困るのか、さっぱりわかりません。そこで自分でもやり、またみんなにも手伝ってもらいましたが、手分けしてデパートへ行き、これもいるな、あれもいるな、と手帳に書いてくることにしました。そのとき驚いたことは、頭のいい男がおおぜいで調べに行ってくれたのに、私の帳面が一番こまかく書いてある。これはどうしてだろう、私の頭が一番いいのか?そんなことはありません。若い人たちの方がずっと頭もいいし、元気もあります。ちがう点は、私が、忘れたら大変だという心が一番強かったわけです。ほかの人は私ほど責任感を持っていない、だから普通に見てくる。私は普通以上に見て、その裏の裏を考えて書かなければならない。いわゆる責任感というものがいかに大事かということをつくづく感じました。」(p35)
では、南極へ行ってみて、どうだったか?
ということで、「南極越冬記」からは、ひとつだけ引用。
「朝食後、片対数方眼紙をさがしたがない。研究用品の不足なのには、ほとほとこまったものである。昨夜計算した数値をグラフに書けないのが残念だ。研究用品の不足で、このほか、こまったのは、ピペットがないことだ。だから滴定ができない。これはまったくひどい話だが、わたしにも責任がある。準備のときに、わたしは化学研究用品については、こう言った。旧制高等学校の化学分析に使う程度の試薬は全部そろえてもらいたい、それから化学天秤は必要だ、と。わたしは、とくに、定量分析のことには言及しなかったのだ。そしたら、滴定用のピペットが入っていなかった。じつは、わたしは、自分用のコマゴマした研究用道具を入れた箱を、用意していた。ところが、どうしたわけか、その箱が文部省の南極観測本部の部屋に置かれたままになってしまった。その中には、ずいぶんいろいろなものが入れてあった。それさえあれば、そうとう助かったのだ。・・・・ほんとうは、だいじな箱なら、ちゃんと自分でもって来なければいけなかった。わたしは、いそがしさにまぎれて、人に頼んだ。それがいけなかった。忘れたというのだ。」(p108~109)
また、「石橋を叩けば渡れない」より引用させてください。
「・・いろいろなことがわかってきます。それがわからない間はすべてに用心しなければならない。だから物事をやるとき、第一回目と第二回目では大変なちがいがあるのです。しかし、二回目と三回目ではもうほとんどちがいはなくなります。
その証拠に、私たち第一回の越冬隊の連中は、家族と泣きの涙で別れてきました。生きて帰るか死んで帰るか、いや死んだら死骸さえ帰って来られんかもしれないのです。ワンワン泣きながら、別れました。そういう第一回目の越冬隊員の別れにくらべて、二回目の人たちが別れるときは、はあ行ってきます、とまるでピクニックにでも行くような調子でした。一回目の人たちの不安や、悲壮さは、もう二回目の人たちにはありませんでした。それほど、未知ということはこわいものです。」(p37~38)
うん。じつは「南極越冬記」の「カブースの火事」をすこし引用したかったのですが、まあ、こう書いておけば、また読んでみたいときは、めくってみるでしょう。