橋本武著「一生役立つ学ぶ力」(日本実業出版社)を読んだ時に、1912年(明治45)に生れて今年百歳となる橋本氏が、小さい頃の教えを受けた先生のことをあれこれと回想している箇所が気になっておりました。
さてっと、東日本大震災から一年たち、あたらしく出版される本には、どこか震災への言及がなされることがほとんど。そういえば、外山滋比古著「『忘れる』力」(潮出版社)というのが2012年2月20日初版ということで出ており。外山氏が震災について、はたして語っているか、という興味から本を買いました。
ちなみにドナルド・キーン氏と瀬戸内寂聴氏と鶴見俊輔氏は1922年生まれ。外山滋比古氏は1923年生まれ。
ところが、「『忘れる』力」には、震災への言及が見あたらない。おそらく、震災以前から準備されていた一冊だったのかもしれませんね。
それよりも、かけがえのない、ご自身の足跡を、咀嚼しながら、もう一度ゆっくりと語っている。そんな一冊。たとえば、この本の最後には「比喩の世界」という8ページほどの文があり。こうはじまります。
「戦争が始まろうとする直前、敵となるイギリスのことば、文化を学ぼうという、非常識なことを考えた私である。もともと、ひねくれていて率直でないところがある。はじめは英語の小説を読んだが、さっぱりおもしろくない。詩を読んだが、まるで手ごたえがない。批評の方が手ごたえがあるが、やたらに攻撃的、議論的である。
やがて、本など読んでもロクなことはないと、とんでもない偏見にとりつかれて、いわゆる読書から遠ざかる。ひとつには、本当にすばらしい本に出会ったら、そのとりこになって、そこから出られなくなるだろう。いくらすぐれた本でも、その中で溺れるのはおもしろくない。それには古典とか名著に近づかないに限る。溺れるのが怖かったものと想像される。
いつしか、模倣、追随を避け、貧しいながらも、わが細道を歩こう。道がなければ、道なきところをふみ分けて進もう。そんな風に考えて、学者になることを断念。・・・・」
なんだか、ご自身がたどった道なき道について、語り直している気がいたします。落語家が古典落語をお稽古するように、この道なき道をたどった足跡を「え~。毎度バカバカしいお噺を一席」という調子で、外山氏はシンプルさに磨きをかけて、語られているように私は読みました。
そうでした。今年百歳になる橋本武氏は、小さい頃の先生の話を反芻していて印象深いのでしたが、さてこの本での外山氏に、こういう文があります。
「・・・タイミングよく、ほめる激励によって、人は、自分でもおどろくような進歩、活動をする。そういうことを、われわれは、知らずに一生を終えることが多いが、いたましいことだとしてよい。叱ることは知らなくてもいい。ほめることを学ぶのは、自他ともに好運である。」(P151)
そういえば、この本に
「アーサー・ウェーリーは『源氏物語』を訳した功によって二度にわたり日本から公式に招聘を受けたが、二度とも辞退している。【わたしの愛するのは千年昔の日本、現実の日本に触れれば美しい夢が破られる】といった理由であったと伝えられる・・・」(p61)
3月8日に日本国籍を取得されたドナルド・キーン氏は、
戸籍名は「キーン ドナルド」
通称で「鬼怒鳴門(キーンドナルド)」という漢字名も使うとのこと。
栃木県の鬼怒川と、徳島県の鳴門からとったのだそうです。
そのキーン氏が、これからの日本でどのような発言をなさってゆかれるのでしょう。
外山滋比古著「『忘れる』力」では、
いつものパラパラ読みなのですが、
私に印象深かったのが「比喩も発明」という文でした。
恩師・福原麟太郎先生の名前がまず登場しておりました。
そこから、わが道をゆく外山氏の思考が語られております。
そんな中から、すこし引用。
「キリスト教の聖書はパラブルに満ちている。寓話であり、たとえ話である。パラブルという語自体が『比喩』という意味をふくんでいる。心の問題をわかりやすく伝えるにはたとえ話が有効であるというのは発見であった。それが、詩的含蓄を帯びるのは不思議ではない。」(p74)
「比喩は安易な技法ではなく本質は詩的発見である。現代、むしろ比喩は衰弱しているかもしれない。」(p76)
さてっと、東日本大震災から一年たち、あたらしく出版される本には、どこか震災への言及がなされることがほとんど。そういえば、外山滋比古著「『忘れる』力」(潮出版社)というのが2012年2月20日初版ということで出ており。外山氏が震災について、はたして語っているか、という興味から本を買いました。
ちなみにドナルド・キーン氏と瀬戸内寂聴氏と鶴見俊輔氏は1922年生まれ。外山滋比古氏は1923年生まれ。
ところが、「『忘れる』力」には、震災への言及が見あたらない。おそらく、震災以前から準備されていた一冊だったのかもしれませんね。
それよりも、かけがえのない、ご自身の足跡を、咀嚼しながら、もう一度ゆっくりと語っている。そんな一冊。たとえば、この本の最後には「比喩の世界」という8ページほどの文があり。こうはじまります。
「戦争が始まろうとする直前、敵となるイギリスのことば、文化を学ぼうという、非常識なことを考えた私である。もともと、ひねくれていて率直でないところがある。はじめは英語の小説を読んだが、さっぱりおもしろくない。詩を読んだが、まるで手ごたえがない。批評の方が手ごたえがあるが、やたらに攻撃的、議論的である。
やがて、本など読んでもロクなことはないと、とんでもない偏見にとりつかれて、いわゆる読書から遠ざかる。ひとつには、本当にすばらしい本に出会ったら、そのとりこになって、そこから出られなくなるだろう。いくらすぐれた本でも、その中で溺れるのはおもしろくない。それには古典とか名著に近づかないに限る。溺れるのが怖かったものと想像される。
いつしか、模倣、追随を避け、貧しいながらも、わが細道を歩こう。道がなければ、道なきところをふみ分けて進もう。そんな風に考えて、学者になることを断念。・・・・」
なんだか、ご自身がたどった道なき道について、語り直している気がいたします。落語家が古典落語をお稽古するように、この道なき道をたどった足跡を「え~。毎度バカバカしいお噺を一席」という調子で、外山氏はシンプルさに磨きをかけて、語られているように私は読みました。
そうでした。今年百歳になる橋本武氏は、小さい頃の先生の話を反芻していて印象深いのでしたが、さてこの本での外山氏に、こういう文があります。
「・・・タイミングよく、ほめる激励によって、人は、自分でもおどろくような進歩、活動をする。そういうことを、われわれは、知らずに一生を終えることが多いが、いたましいことだとしてよい。叱ることは知らなくてもいい。ほめることを学ぶのは、自他ともに好運である。」(P151)
そういえば、この本に
「アーサー・ウェーリーは『源氏物語』を訳した功によって二度にわたり日本から公式に招聘を受けたが、二度とも辞退している。【わたしの愛するのは千年昔の日本、現実の日本に触れれば美しい夢が破られる】といった理由であったと伝えられる・・・」(p61)
3月8日に日本国籍を取得されたドナルド・キーン氏は、
戸籍名は「キーン ドナルド」
通称で「鬼怒鳴門(キーンドナルド)」という漢字名も使うとのこと。
栃木県の鬼怒川と、徳島県の鳴門からとったのだそうです。
そのキーン氏が、これからの日本でどのような発言をなさってゆかれるのでしょう。
外山滋比古著「『忘れる』力」では、
いつものパラパラ読みなのですが、
私に印象深かったのが「比喩も発明」という文でした。
恩師・福原麟太郎先生の名前がまず登場しておりました。
そこから、わが道をゆく外山氏の思考が語られております。
そんな中から、すこし引用。
「キリスト教の聖書はパラブルに満ちている。寓話であり、たとえ話である。パラブルという語自体が『比喩』という意味をふくんでいる。心の問題をわかりやすく伝えるにはたとえ話が有効であるというのは発見であった。それが、詩的含蓄を帯びるのは不思議ではない。」(p74)
「比喩は安易な技法ではなく本質は詩的発見である。現代、むしろ比喩は衰弱しているかもしれない。」(p76)