曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)に
「もし私が被災者の一人で避難所にいて、寒さに震えていたら、体育館や講堂の床材にもよるが、どこか燃えないコーナーを探すかして、火事にならない程度の焚き火を燃やす。こうした場所で火を使うことはいけない、とういことはよく知っている。しかし人を救うためには禁を犯せばいい。罰を受けたらいいのである。・・・」(p200)
この想定外における「焚き火を燃やす」というテーマは、いざ、臨機応変の考察をする場合の、ひとつの具体的な討論材料となると思うのですが、いかがでしょう。
曽野さんは
「私はいつも心の底で、電気もガスも止まる日本の冬の日がいつかあるに違いないと考えていたのである。」(p114)と書いております。「いつも心の底で」というのは、私などには到底無理。ですが、臨機応変のテーマとして「焚き火を燃やす」という場合がある。これについて常々語りあうのはよいことだろうと、思えます。
では、そのテーマで、素材をあげていこうと思うのです。
そういえば、方丈記の災害のはじまりはというと、
「風はげしく吹きて静かならざりし夜、戌の時ばかり、都の東南より火いできて西北に至る。果てには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。火元は樋口富ノ小路とかや。・・」
うん。もう少し引用してみましょう。
「遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、風に堪へず吹き切れたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。其中の人うつし心あらむや。あるいは煙にむせびて倒れ伏し、あるいは焔にまぐれてたちまちに死ぬ。あるいは身ひとつからうしてのがるるも、資財を取り出づるに及ばず。・・・」
つぎには、海堂尊監修「救命 東日本大震災、医師たちの奮闘」(新潮社)から。
岩手県陸前高田市高田病院の院長・石木幹人氏のインタビューから、
「吹きさらしの屋上は、寒さもいっそう厳しかった。ボイラー室など風を防げる場所が二カ所あったので、患者さんを優先的に入れて、一般の人と職員はその外にいるようにしました。・・・職員は半そでの白衣という薄着で、中にはびしょびしょに濡れた人たちもいたので、外に出しておくのは忍びないような状態でした。町からの避難者の中にはちゃんと防寒具を着て逃げてきた人も多かったので、その人たちが最初に外にいるような配慮も自然にできていました。患者さんたちはびしょ濡れの状態で屋上へ上がったので、急いで着替えさせなければなりません。看護師たちは四階の病棟へ戻って、乾いている衣類やオムツなどを探し、濡れた人たちを着替えさせていきます。夜になる前にそうした作業を済ませ、懐中電灯や電池、タオルや毛布など、使えるものはとにかく屋上へ上げろという指示をしました。・・・その日は五時くらいに暮れてしまい、月明かりもなくて真っ暗になりました。星はけっこう見えたけれど、時折、雪がちらつくような凍てつく晩だったのです。冷え込みはいっそう厳しくなり、ビニールのゴミ袋をかぶったり、紙オムツを身体に巻きつけて寒さをしのぎました。紙オムツはわりに温かかったと思います。
それでもあまりの寒さに耐えきれず、夜中になると、外にいた人たちが屋上で火を炊き始めました。最初はそんなつもりはなかったけれど、誰かが『木を燃やそう』と言い出したときは、『危ないからやめろ』と反対するわけにもいかなかった。病棟で使っていたドアや棚など、木製のものをどんどん屋上にあげ、そこで壊して燃やしながら暖をとりました。温かいところは人がギュウギュウ詰めになって、一人座るのも大変でした。・・・」(p188~189)
「夜間もヘイコプターが上空を飛んでいて、皆で手を振ったり、ライトを振りかざしたりしていたけれど、やはり救援は来ませんでした。ラジオでは高田病院の屋上で火を燃やしているから、『火を消せ』というアナウンスがたくさん入ったらしいけれど・・・・そのまま朝まで火を燃やしていました。その晩は水も食べ物も口にすることはありませんでした。病院に備えているものはあったけれど、患者さんたちにまず食べさせなければいけない。高齢者は水分が不足すると具合が悪くなるので、確保していたものを見つけてきては飲ませていました。」(p190)
うん。佐野眞一著「津波と原発」(講談社)には、
高田病院の四階に入院していた津波研究家・山下文男氏に、震災後、佐野氏が直接会って聞いている箇所があります。
え~と。女子サッカーを見ていたら、いつの間にやら12時を過ぎてしまいました(笑)。今日はこのくらいとします。
「もし私が被災者の一人で避難所にいて、寒さに震えていたら、体育館や講堂の床材にもよるが、どこか燃えないコーナーを探すかして、火事にならない程度の焚き火を燃やす。こうした場所で火を使うことはいけない、とういことはよく知っている。しかし人を救うためには禁を犯せばいい。罰を受けたらいいのである。・・・」(p200)
この想定外における「焚き火を燃やす」というテーマは、いざ、臨機応変の考察をする場合の、ひとつの具体的な討論材料となると思うのですが、いかがでしょう。
曽野さんは
「私はいつも心の底で、電気もガスも止まる日本の冬の日がいつかあるに違いないと考えていたのである。」(p114)と書いております。「いつも心の底で」というのは、私などには到底無理。ですが、臨機応変のテーマとして「焚き火を燃やす」という場合がある。これについて常々語りあうのはよいことだろうと、思えます。
では、そのテーマで、素材をあげていこうと思うのです。
そういえば、方丈記の災害のはじまりはというと、
「風はげしく吹きて静かならざりし夜、戌の時ばかり、都の東南より火いできて西北に至る。果てには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。火元は樋口富ノ小路とかや。・・」
うん。もう少し引用してみましょう。
「遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、風に堪へず吹き切れたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。其中の人うつし心あらむや。あるいは煙にむせびて倒れ伏し、あるいは焔にまぐれてたちまちに死ぬ。あるいは身ひとつからうしてのがるるも、資財を取り出づるに及ばず。・・・」
つぎには、海堂尊監修「救命 東日本大震災、医師たちの奮闘」(新潮社)から。
岩手県陸前高田市高田病院の院長・石木幹人氏のインタビューから、
「吹きさらしの屋上は、寒さもいっそう厳しかった。ボイラー室など風を防げる場所が二カ所あったので、患者さんを優先的に入れて、一般の人と職員はその外にいるようにしました。・・・職員は半そでの白衣という薄着で、中にはびしょびしょに濡れた人たちもいたので、外に出しておくのは忍びないような状態でした。町からの避難者の中にはちゃんと防寒具を着て逃げてきた人も多かったので、その人たちが最初に外にいるような配慮も自然にできていました。患者さんたちはびしょ濡れの状態で屋上へ上がったので、急いで着替えさせなければなりません。看護師たちは四階の病棟へ戻って、乾いている衣類やオムツなどを探し、濡れた人たちを着替えさせていきます。夜になる前にそうした作業を済ませ、懐中電灯や電池、タオルや毛布など、使えるものはとにかく屋上へ上げろという指示をしました。・・・その日は五時くらいに暮れてしまい、月明かりもなくて真っ暗になりました。星はけっこう見えたけれど、時折、雪がちらつくような凍てつく晩だったのです。冷え込みはいっそう厳しくなり、ビニールのゴミ袋をかぶったり、紙オムツを身体に巻きつけて寒さをしのぎました。紙オムツはわりに温かかったと思います。
それでもあまりの寒さに耐えきれず、夜中になると、外にいた人たちが屋上で火を炊き始めました。最初はそんなつもりはなかったけれど、誰かが『木を燃やそう』と言い出したときは、『危ないからやめろ』と反対するわけにもいかなかった。病棟で使っていたドアや棚など、木製のものをどんどん屋上にあげ、そこで壊して燃やしながら暖をとりました。温かいところは人がギュウギュウ詰めになって、一人座るのも大変でした。・・・」(p188~189)
「夜間もヘイコプターが上空を飛んでいて、皆で手を振ったり、ライトを振りかざしたりしていたけれど、やはり救援は来ませんでした。ラジオでは高田病院の屋上で火を燃やしているから、『火を消せ』というアナウンスがたくさん入ったらしいけれど・・・・そのまま朝まで火を燃やしていました。その晩は水も食べ物も口にすることはありませんでした。病院に備えているものはあったけれど、患者さんたちにまず食べさせなければいけない。高齢者は水分が不足すると具合が悪くなるので、確保していたものを見つけてきては飲ませていました。」(p190)
うん。佐野眞一著「津波と原発」(講談社)には、
高田病院の四階に入院していた津波研究家・山下文男氏に、震災後、佐野氏が直接会って聞いている箇所があります。
え~と。女子サッカーを見ていたら、いつの間にやら12時を過ぎてしまいました(笑)。今日はこのくらいとします。