昨日の3月11日。テレビをつけていたら、避難救助活動で休むことなく活動された、陸前高田市消防団高田分団の大坂淳分団長が、地元でインタビューに答えられている姿が写っておりました。
あらためてJレスキュー編「ドキュメント東日本大震災 救助の最前線で」(イカロス出版)を本棚から出してみます。そこに大坂分団長への、一章が組まれておりました。
「大坂分団長自身も写真店である自宅の一切が流され、最愛の妻と娘を失った。助かっているものとばかり思っていた妻と娘は避難所のどこを捜しても見つからなかった。」(p76)
そして、最後の方には、こうあったのでした。
「最後に大坂分団長に一番腹が立ったことを聞くと、こういう答えが帰ってきた。
『いっぱいあるけど言えない。死ぬまで腹の中においておこうと思う。オレはその日から怒りまくっている。その日から家はない、嫁はいない、娘はいない。が、怒れば怒るほど自分が情けなくなるから、怒らないことにした。いちいち腹を立てていたら、怒りの矛先が飛び火するし、人間が下がっちまう。』」(p84)
今日の産経新聞には、一面に東日本大震災一周年追悼式での天皇陛下お言葉が全文掲載されておりました。それは
「東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
1年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々がいることを忘れることができません。・・・」
とはじまっておりました。このお言葉が「死ぬまで腹の中においておこう」という大坂分団長のところにも届けと祈ります。
うん。消防団といえば、
遺族代表の福島県・村岡美空(14)さんの言葉を忘れないように、
ここに引用しておきます。
「・・・私の父は、地元の消防団員です。
高台の小学校に着いたとき、聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、消防団の活動に入ると言い残して、急いで走り去りました。高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。・・・・
数日たったある日、父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。人の役に立つことが好きで、優しかった父。学校行事も積極的に参加し、小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。私はこんな父が大好きでした。捜索にあたっていただいた皆さん、父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、ありがとうございました。・・・・」
最後には、天皇陛下のお言葉の終りの箇所を
引用します。
「・・国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようにたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。」
あらためてJレスキュー編「ドキュメント東日本大震災 救助の最前線で」(イカロス出版)を本棚から出してみます。そこに大坂分団長への、一章が組まれておりました。
「大坂分団長自身も写真店である自宅の一切が流され、最愛の妻と娘を失った。助かっているものとばかり思っていた妻と娘は避難所のどこを捜しても見つからなかった。」(p76)
そして、最後の方には、こうあったのでした。
「最後に大坂分団長に一番腹が立ったことを聞くと、こういう答えが帰ってきた。
『いっぱいあるけど言えない。死ぬまで腹の中においておこうと思う。オレはその日から怒りまくっている。その日から家はない、嫁はいない、娘はいない。が、怒れば怒るほど自分が情けなくなるから、怒らないことにした。いちいち腹を立てていたら、怒りの矛先が飛び火するし、人間が下がっちまう。』」(p84)
今日の産経新聞には、一面に東日本大震災一周年追悼式での天皇陛下お言葉が全文掲載されておりました。それは
「東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
1年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々がいることを忘れることができません。・・・」
とはじまっておりました。このお言葉が「死ぬまで腹の中においておこう」という大坂分団長のところにも届けと祈ります。
うん。消防団といえば、
遺族代表の福島県・村岡美空(14)さんの言葉を忘れないように、
ここに引用しておきます。
「・・・私の父は、地元の消防団員です。
高台の小学校に着いたとき、聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、消防団の活動に入ると言い残して、急いで走り去りました。高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。・・・・
数日たったある日、父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。人の役に立つことが好きで、優しかった父。学校行事も積極的に参加し、小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。私はこんな父が大好きでした。捜索にあたっていただいた皆さん、父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、ありがとうございました。・・・・」
最後には、天皇陛下のお言葉の終りの箇所を
引用します。
「・・国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようにたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。」