宮城県石巻市にある大川小学校は、海岸から4キロ離れたところにありました。避難所としての指定があったようです。津波が押し寄せる際に、校長は不在。避難所ということで、近隣から老人の方々もあつまっていたようです。先生方は、車でむかえに来る父兄の確認にも忙しく立ち回されていたと思われます。
この大川小学校について、最初にまとまった情報を読めたのは、2011年中央公論8月号でした。それについては当ブログの2011年7月15日に書き込みがしてあります。それから気になっておりましたが、今回、二人の新聞での文を読むことができました。
どうして、裏山へ逃げる選択肢がなかったのか?
曽野綾子と都司嘉宣のお二人の現地へ直接行かれて、確認なさった文を読めました。
どちらも産経新聞です。
2012年1月27日曽野綾子「小さな親切、大きなお世話」は、こうはじまっておりました。「被災した当事者でもない者が、被災地に立ち入るのは心ないようでためらわれたのだが、私は東日本大震災後、丸四カ月目に東北に行った。そして児童74人、教職員10人が死亡または行方不明になったという大川小学校の跡地にも立って、胸のつぶれる思いがした。」
いろいろ指摘があるのですが、私が聞きたかったのは裏山に関することでした。その箇所。
「私はここに小学校児童がいたらどこへ逃げたらいいのだろうか、という思いであたりを見回した。裏山が校舎のすぐ後ろに迫っていることは意外だった。この裏山については、今でも意見が分かれているらしい。まず急峻で、子供にはとうてい上れない、ということはすぐにわかった。」
つぎに、2012年3月22日の都司嘉宣「温故地震」大震災編。この日の題は「大川小学校の惨事」。では、そこから丁寧に引用してみます。
「宮城県石巻市立大川小学校の被災について取り上げる。大川小は、河口から約4キロ上流の北上川南岸の堤防近くにあり、周辺は海抜約2・5メートルのくぼ地となっている。ここで全児童108人の約7割に当たる74人と、教職員10人が死亡・行方不明となる惨劇が起きた。
地震発生時、児童らは2階建て鉄筋コンクリート造りの校舎内にいた。大きな揺れを感じ、津波警報の発令を知った教職員は全校児童を校庭に整列させた。その後、少しでも高い場所に児童を移動させようと、海抜6メートルの北上川の堤防に向かって列になり歩いていくうち、川から堤防を乗り越えてきた大津波に、先頭の児童から順にのみ込まれていったという。」
さて、このあとに、現地へいった都司氏の裏山についての記述がつづくのでした。
「最初にこの話を聞いたのは東京にいるときだった。大川小付近の地図を確認すると、校舎の背後に小高い山がある。『なぜ裏山に登らせなかったのだろう』と不思議に感じた。だが、昨年6月に大川小を尋ねる機会があり疑問は氷解した。させなかったのではなく、できなかったのだ。
裏山は、ほぼ傾斜45度の急斜面だった。斜面には津波が到達した位置を示す木札があり、高さは海抜9.4メートル。私はそこまで登ったが、大の大人が草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった。しかも、震災当日の昨年3月11日、斜面はまだ一面の雪に覆われていたという。とても児童108人を登らせることはできなかったのである。」
どちらも、現地へ行って、直接確認している点がありがたく。
都司氏は、直接登っておられるのでした。たいへん参考になりました。
この大川小学校について、最初にまとまった情報を読めたのは、2011年中央公論8月号でした。それについては当ブログの2011年7月15日に書き込みがしてあります。それから気になっておりましたが、今回、二人の新聞での文を読むことができました。
どうして、裏山へ逃げる選択肢がなかったのか?
曽野綾子と都司嘉宣のお二人の現地へ直接行かれて、確認なさった文を読めました。
どちらも産経新聞です。
2012年1月27日曽野綾子「小さな親切、大きなお世話」は、こうはじまっておりました。「被災した当事者でもない者が、被災地に立ち入るのは心ないようでためらわれたのだが、私は東日本大震災後、丸四カ月目に東北に行った。そして児童74人、教職員10人が死亡または行方不明になったという大川小学校の跡地にも立って、胸のつぶれる思いがした。」
いろいろ指摘があるのですが、私が聞きたかったのは裏山に関することでした。その箇所。
「私はここに小学校児童がいたらどこへ逃げたらいいのだろうか、という思いであたりを見回した。裏山が校舎のすぐ後ろに迫っていることは意外だった。この裏山については、今でも意見が分かれているらしい。まず急峻で、子供にはとうてい上れない、ということはすぐにわかった。」
つぎに、2012年3月22日の都司嘉宣「温故地震」大震災編。この日の題は「大川小学校の惨事」。では、そこから丁寧に引用してみます。
「宮城県石巻市立大川小学校の被災について取り上げる。大川小は、河口から約4キロ上流の北上川南岸の堤防近くにあり、周辺は海抜約2・5メートルのくぼ地となっている。ここで全児童108人の約7割に当たる74人と、教職員10人が死亡・行方不明となる惨劇が起きた。
地震発生時、児童らは2階建て鉄筋コンクリート造りの校舎内にいた。大きな揺れを感じ、津波警報の発令を知った教職員は全校児童を校庭に整列させた。その後、少しでも高い場所に児童を移動させようと、海抜6メートルの北上川の堤防に向かって列になり歩いていくうち、川から堤防を乗り越えてきた大津波に、先頭の児童から順にのみ込まれていったという。」
さて、このあとに、現地へいった都司氏の裏山についての記述がつづくのでした。
「最初にこの話を聞いたのは東京にいるときだった。大川小付近の地図を確認すると、校舎の背後に小高い山がある。『なぜ裏山に登らせなかったのだろう』と不思議に感じた。だが、昨年6月に大川小を尋ねる機会があり疑問は氷解した。させなかったのではなく、できなかったのだ。
裏山は、ほぼ傾斜45度の急斜面だった。斜面には津波が到達した位置を示す木札があり、高さは海抜9.4メートル。私はそこまで登ったが、大の大人が草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった。しかも、震災当日の昨年3月11日、斜面はまだ一面の雪に覆われていたという。とても児童108人を登らせることはできなかったのである。」
どちらも、現地へ行って、直接確認している点がありがたく。
都司氏は、直接登っておられるのでした。たいへん参考になりました。