原子力災害対策本部の議事録を作成していなかった。
ということを、どう考えればよいのやら。
たとえば、曽野綾子著「揺れる大地に立って」(2011年9月初版)には、
こんな箇所があります。
「地震後しばらく経って、官邸と保安院と東電との間で、喧嘩か責任のなすり合いが始まった。東京電力福島第一原子力発電所の事故後、第一号機への海水注水を行うことについて、『言った』『言わない』『知らない』『伝えた』『連絡を受けていない』式のなすり合いが始まったのである。ことがこれほど重要でなければ、世間にいくらでもある喧嘩の典型的タイプである。」(p162)
「・・組織が喧嘩をしないためには、記録を採る習慣が非常に大切だと私は改めて思った。私は前に勤めていた日本財団で行っている事業に関して、何か少しでもおかしいと感じたら、その瞬間から記録を採る習慣を職員に要請した。『○月○日、××の件で、どこそこの△△さんと名乗る人から、根堀り聞くという感じの電話を受ける』から始まって、その問題に関するあらゆる人のあらゆる種類のアプローチを、とにかく記録しておくのである。これは非常に大切なもので、後になって大きな働きをすることがある。・・・記録は一種の武器なのである。」(p163~164)
ところで、「文芸春秋」三月臨時増刊号「3・11から一年 100人の作家の言葉」というのが出ておりました。
そこの五木寛之氏へのインタビューに、こんな箇所がありました。
「ニュースをみながら、敗戦当時を思い出していました。敗戦のとき、私は北朝鮮の平壌(ピョンヤン)にいました。まだ少年だった私は、なすことなく、ただ茫然としていたのです。そのときラジオでは、『治安は確保されます』と繰り返し放送されていた。『市民は動揺することなく現地にとどまれ』ということですね。私たち家族は、その『お上』からの情報を盲目的に信頼し、平壌を動かなかった。・・・そうこうするうちに、ソ連軍が進駐してきて、平壌の日本人たちは孤立状態となったのです。・・・今回の原発事故でも、『ただちに人体に影響はありません』などと、安全を強調する政府の発表がしきりにニュースで流れました。私は、それを聞くたびに、敗戦当時の『治安は確保されます』という言葉が思い出されてなりませんでした。」(p21~22)
こういう経験を持つ五木寛之氏は、そのあとの方でこう語っております。
「・・たとえば原子力災害対策本部の議事録を作成していなかったことが問題になっていますが、そんなものを国民に見せるわけがない。たとえ議事録があったとしても、公開せずに処分するのが当然と考えるでしょう。」
うん。話題をかえます。
この三月臨時増刊号に14人大座談会というのが掲載されておりました。
そこに、荒谷栄子さんが語っている箇所があったのです。
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の中の「昭和八年の津波 子供の眼」に、尋常小学校六年の牧野アイさんの作文が載っております。そのあとに吉村昭が、大人になった牧野アイさんに言及しており印象深かったのでした。
その文庫にはこうあります。
「この作文を書いた少女は、現在田老町第一小学校校長の夫人として同町に住んでいる。49歳とは思えぬ若々しい明るい顔をした方だった・・・・津波によってすべてを失ったアイさんの生家は、破産した。そして孤児となったアイさんは、田老村の叔父の家に引きとられ、その後宮古町に一年、北海道の根室に五年と、親戚の家を転々とした。アイさんは成人し、19歳の年には再び田老にもどり翌年教員の荒谷功二氏と結婚した。ご主人の荒谷氏も、津波で両親、姉、兄を失った悲劇的な過去をもつ人であった。荒谷氏とアイさんの胸には、津波の恐しさが焼きついてはなれない。現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。『子供さんはいやがるでしょう?』と私(注:吉村昭のこと)が言うと、『いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます』という答えがもどってきた。」(p135)
この荒谷アイさんについては、「『つなみ』の子どもたち」森健著(文芸春秋)に現在の様子が語られておりました。
今度は、その娘さんである荒谷栄子さんが、こんどは座談会で語っているのでした。
それも引用していきます。ちなみに文芸春秋三月増刊号には荒谷栄子さんの紹介に「59歳・岩手県宮古市田老第三小学校校長」とあります。
「私の住む宮古市田老地区は、何千年も前から津波と復興を繰り返して来ました。数年前から、津波のための避難所(シェルター)をつくったり、マニュアルをつくっては見直したりと、教育委員会の指導の下でやってきたわけです。だけど今回、私の中では、マニュアルは関係なかった。あ、これは津波が来る、子どもの命を守らなきゃと、子どもたちを集めて何も持たせないであらかじめ決めておいた高台に避難させました。ただ、雪が降って寒かったので、ジャケットを一枚はおらせて。小・中学校併設校だったので、中学生と小学生をセットにした形で、『中学生たち、小学生を頼むよ』と。二十名に満たない小規模校だったので、そうやって高台に避難させました。マニュアルでは車は使うなとか、それから学校の帳簿を持ち出せとか、細かく書かれていたのですけれども、そういうのは一切頭にはありませんでした。これは私自身の生育歴にも関係していると思います。私の母親は昭和八年の津波で生き残った人で、・・・・私たちは母親のお腹の中にいるときから、
『地震が来たら、
津波が来る、
だから高台に逃げなさい、
絶対戻ってはいけない』
この四点セットで、実にシンプルで分かりやすく教えられました。」(p56~57)
「母親は当時十一歳だったんですけれども、そのときの状況をよく覚えていて、足が片方なかったり、腕がなかったり。当時の小学校の先生は内臓の位置が動いたって。まあ、その方は二年ぐらいで亡くなったそうですけれども。だからうちの親は、『津波に勝とうと思うな』って、これからも、自然に対する畏敬の念というのを声を大きくして伝えていかないと、また同じことが繰り返されると思います。」(p66)
うん。荒谷アイさんは昨年89歳ぐらいということになります。
ということを、どう考えればよいのやら。
たとえば、曽野綾子著「揺れる大地に立って」(2011年9月初版)には、
こんな箇所があります。
「地震後しばらく経って、官邸と保安院と東電との間で、喧嘩か責任のなすり合いが始まった。東京電力福島第一原子力発電所の事故後、第一号機への海水注水を行うことについて、『言った』『言わない』『知らない』『伝えた』『連絡を受けていない』式のなすり合いが始まったのである。ことがこれほど重要でなければ、世間にいくらでもある喧嘩の典型的タイプである。」(p162)
「・・組織が喧嘩をしないためには、記録を採る習慣が非常に大切だと私は改めて思った。私は前に勤めていた日本財団で行っている事業に関して、何か少しでもおかしいと感じたら、その瞬間から記録を採る習慣を職員に要請した。『○月○日、××の件で、どこそこの△△さんと名乗る人から、根堀り聞くという感じの電話を受ける』から始まって、その問題に関するあらゆる人のあらゆる種類のアプローチを、とにかく記録しておくのである。これは非常に大切なもので、後になって大きな働きをすることがある。・・・記録は一種の武器なのである。」(p163~164)
ところで、「文芸春秋」三月臨時増刊号「3・11から一年 100人の作家の言葉」というのが出ておりました。
そこの五木寛之氏へのインタビューに、こんな箇所がありました。
「ニュースをみながら、敗戦当時を思い出していました。敗戦のとき、私は北朝鮮の平壌(ピョンヤン)にいました。まだ少年だった私は、なすことなく、ただ茫然としていたのです。そのときラジオでは、『治安は確保されます』と繰り返し放送されていた。『市民は動揺することなく現地にとどまれ』ということですね。私たち家族は、その『お上』からの情報を盲目的に信頼し、平壌を動かなかった。・・・そうこうするうちに、ソ連軍が進駐してきて、平壌の日本人たちは孤立状態となったのです。・・・今回の原発事故でも、『ただちに人体に影響はありません』などと、安全を強調する政府の発表がしきりにニュースで流れました。私は、それを聞くたびに、敗戦当時の『治安は確保されます』という言葉が思い出されてなりませんでした。」(p21~22)
こういう経験を持つ五木寛之氏は、そのあとの方でこう語っております。
「・・たとえば原子力災害対策本部の議事録を作成していなかったことが問題になっていますが、そんなものを国民に見せるわけがない。たとえ議事録があったとしても、公開せずに処分するのが当然と考えるでしょう。」
うん。話題をかえます。
この三月臨時増刊号に14人大座談会というのが掲載されておりました。
そこに、荒谷栄子さんが語っている箇所があったのです。
吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の中の「昭和八年の津波 子供の眼」に、尋常小学校六年の牧野アイさんの作文が載っております。そのあとに吉村昭が、大人になった牧野アイさんに言及しており印象深かったのでした。
その文庫にはこうあります。
「この作文を書いた少女は、現在田老町第一小学校校長の夫人として同町に住んでいる。49歳とは思えぬ若々しい明るい顔をした方だった・・・・津波によってすべてを失ったアイさんの生家は、破産した。そして孤児となったアイさんは、田老村の叔父の家に引きとられ、その後宮古町に一年、北海道の根室に五年と、親戚の家を転々とした。アイさんは成人し、19歳の年には再び田老にもどり翌年教員の荒谷功二氏と結婚した。ご主人の荒谷氏も、津波で両親、姉、兄を失った悲劇的な過去をもつ人であった。荒谷氏とアイさんの胸には、津波の恐しさが焼きついてはなれない。現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。『子供さんはいやがるでしょう?』と私(注:吉村昭のこと)が言うと、『いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます』という答えがもどってきた。」(p135)
この荒谷アイさんについては、「『つなみ』の子どもたち」森健著(文芸春秋)に現在の様子が語られておりました。
今度は、その娘さんである荒谷栄子さんが、こんどは座談会で語っているのでした。
それも引用していきます。ちなみに文芸春秋三月増刊号には荒谷栄子さんの紹介に「59歳・岩手県宮古市田老第三小学校校長」とあります。
「私の住む宮古市田老地区は、何千年も前から津波と復興を繰り返して来ました。数年前から、津波のための避難所(シェルター)をつくったり、マニュアルをつくっては見直したりと、教育委員会の指導の下でやってきたわけです。だけど今回、私の中では、マニュアルは関係なかった。あ、これは津波が来る、子どもの命を守らなきゃと、子どもたちを集めて何も持たせないであらかじめ決めておいた高台に避難させました。ただ、雪が降って寒かったので、ジャケットを一枚はおらせて。小・中学校併設校だったので、中学生と小学生をセットにした形で、『中学生たち、小学生を頼むよ』と。二十名に満たない小規模校だったので、そうやって高台に避難させました。マニュアルでは車は使うなとか、それから学校の帳簿を持ち出せとか、細かく書かれていたのですけれども、そういうのは一切頭にはありませんでした。これは私自身の生育歴にも関係していると思います。私の母親は昭和八年の津波で生き残った人で、・・・・私たちは母親のお腹の中にいるときから、
『地震が来たら、
津波が来る、
だから高台に逃げなさい、
絶対戻ってはいけない』
この四点セットで、実にシンプルで分かりやすく教えられました。」(p56~57)
「母親は当時十一歳だったんですけれども、そのときの状況をよく覚えていて、足が片方なかったり、腕がなかったり。当時の小学校の先生は内臓の位置が動いたって。まあ、その方は二年ぐらいで亡くなったそうですけれども。だからうちの親は、『津波に勝とうと思うな』って、これからも、自然に対する畏敬の念というのを声を大きくして伝えていかないと、また同じことが繰り返されると思います。」(p66)
うん。荒谷アイさんは昨年89歳ぐらいということになります。