和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

おもしろい『自我』。

2012-11-20 | 短文紹介
本の入った段ボール箱をみてたら、
多田道太郎対談集「ことばの響き」(筑摩書房)がある。
目次に立原正秋氏との対談「方丈の思考」とあり、
『方丈記』にまつわる対談。
未読の、その箇所だけ読み始めると、
これが、たいそう面白い。

たとえば

立原】 こいうことはいえると思うのです。つまり、中世の人たちはどこかで地獄を見てきているはずなんです。ところが、「自我だ、自我だ」と騒いでいる近代の人たちは、ぼくは地獄を見てきていないような気がします。
  ・・・・
多田】 保元・平治の乱とか、平家の滅亡とか、たいへんな事件を同時代にもちながら、そういう戦乱のことをいっさい書いてない、という批評をする学者があるわけですね。ぼくはしかし、そういう、時代の大きな激変、滅亡してゆくというそのことで、やはり自分という、自我というものを、長明なりにはじめて摑めるような視点というのが出てきたのだと思います。・・・日本ふう、――自我か自分かわからないけれども、空虚さにしろ何にしろ、そういうものが鋭いかたちで出てきているということは間違いないですね。(p187)


この対談で、あれっ、と思った箇所は

多田】 ・・・・さっきの即物性といいますか、外面性といいますか、そういうものとつないで考えると、自分の外にある身のまわりのものですね、とくに家とか、道具とか、庭木とか、こういうものが『第二自我』、『第二自分』みたいに感じられて、そこに、自分の気分を投射するわけですね。それによって自分の気分というものを整える。日常性とか日常の美学とかいうものとさっきの、自我の中心点が空虚な感じがする、――その無常観とね。この二つがつながったおもしろい『自我』の構造があるのじゃないかという気がする。
立原】 それ、ひとつ追究してくださいよ。 (p183)
コメント
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