和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

たちまち「他人」。

2012-11-24 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の
9「日記と記録」に、忘れられない箇所がありました。

「・・『自分』というものは、時間とともに、たちまち『他人』になってしまうものである。形式や技法を無視していたのでは、すぐに、自分でも何のことがかいてあるのか、わからなくなってしまう。日記というものは、時間を異にした『自分』という『他人』との文通である、とかんがえておいたほうがいい。・・・」(p162)

さてっと、文章についての本には、推敲についての箇所があるのでした。
その推敲と、「たちまちの『他人』」というキーワードとが
具体的な指摘となると、こうなるのだなあという箇所を引用。

「というわけで、結局、推敲の要諦は、『時間をおく』というところに落ち着く。・・推敲は、書いているときとは別のアタマで、『読み手』として読む環境を整えた上ではじめないといけないということだ。もうひとつ、ワープロを使っている書き手にとっては、『印刷する』という手順が、有効な手段になる。というのも、印刷した原稿は、自分の原稿を客観視するための適度な距離をもたらしてくれるからだ。
ワープロの作業画面は『書く』ためのフィールドだ。一方、原稿をプリントアウトした紙は、純粋に『読む』ための視野を提供してくれる。と、読み比べた結果は意外なほど違う。同じ原稿でも、液晶画面をスクロールさせて読んだ場合と比べて、印刷結果を紙で読み直すと、より大づかみに、読み手の速度で把握することが可能になる。
液晶画面で見ると、どうしても近視眼的になる。最終段階の推敲を、画面上だけで間に合せる態度は、ぜひ避けなければならない。」(p168~169)

以上は、「小田嶋隆のコラム道」(ミシマ社)に出てきます。
ひとりだけ、引用するのも何ですから、
もうひとり。

藤原智美著「文章は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)では、
こう指摘しておりました。

「推敲は必ず紙にプリントアウトしてから行います。
不思議なものですが、同じ文章にもかかわらず、紙で推敲すると画面で見た場合と比べて何倍もの粗が見えてきます。たとえばモニターでは気づかなかった誤字脱字を紙の上で発見することも少なくありません。文章そのものの稚拙さも紙のほうがはっきりと浮び上がる気がします。」(p128)

うん。二人の実例で、私は満足。
プリントしてから眺めるってことは、
自分にも納得、腑に落ちるのでした。


さてっと、以下は余談。
藤原智美氏は、この次がありました。
フムフム、そこまでやるのだなあ、と思って読みました。

「かつては文章を自分で音読してテープに録音し、ふたたび聞いてみるということをやったこともあります。実際に自分で声を出して読むと、『てにをは』の間違いや、主部と述部がかみ合っていないところがすぐわかります。
文法的な間違いがなくても、聞いていてリズムに違和感があるところは、文章として美しくない場合が多いものです。このようなときは句読点の位置を変えるなどして、リズムを整えます。
テープによる推敲は、文章力を鍛えようとしている人にとって試してみる価値のある方法だと思います。私自身、この方法でかなり文章力が磨かれた気がします。いまでも文章の音読は続けています。」(p128)

う~ん。すごいなあ。
私には、とうてい出来ないでしょうが、
やっぱり、気になるので引用しておくのでした。

そういえば、
谷崎潤一郎著「文章読本」の「用語について」で
「分り易い語を選ぶこと」という箇所があるのでした。

「特に私がこれを強張する所以は、現今では猫も杓子も智識階級ぶつた物の云ひ方をしたがり、やさしい言葉で済むところを故意にむづかしく持つて廻る悪傾向が、流行してゐるからであります。昔、唐の大詩人の白楽天は、自分の作つた詩を発表する前に、その草稿を無学なお爺さんやお婆さんに読んで聞かせ、彼等に分らない言葉があると、躊躇なく平易な言葉に置き換へたと云ふ逸話は、私共が少年の頃しばしば云ひ聞かされた有名な話でありますが、現代の人は此の白楽天の心がけを余りにも忘れ過ぎてをります。・・」


う~ん。余りにも忘れすぎている「白楽天の心がけ」。
そういえば、武部利男訳「白楽天詩集」が、
どこかに買ってあったはずなので、読んでみます。

コメント
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