新刊の丸谷才一・池澤夏樹編「分厚い本と熱い本」(毎日新聞社)を注文。
それが昨日届きました。
さっそくパラリと、あとがきをひらく。
選者二名を代表して池澤夏樹氏が書いておりました。
ここでは、あとがきの最後を引用。
「自分が読んだことがある本の書評に出会うと、そうかこういう深い読みがあるかと感心し、知らない本の書評を読むとその本が読みたくなる。ぼくも丸谷さんもこの『名作選』が取り上げた本の一割も読んでいないだろう。それで編纂の途中で読みたくなって注文した本が数十冊。古びない本を取り上げてきたからこその誘惑である。この三巻にはそういう危険な一面があることを警告しておく。読者諸姉諸兄くれぐれも散財にご用心を。」
誠実で懇切で、しかもユーモアのある書評を読めるよろこび。
いまなら、古本で読めるのだろうなあ。でも散財のご用心。
そううけとめました。
あとがきには、
「・・ちっぽけな領土がどうなろうと、我々は文化的には大いに栄えている」とあります。あとがきの日付は2012年10月。
あと十年二十年たってから、振り返ってみたい、
そんな池澤夏樹氏の一言。
あとがきの前、つまりこの書評本の最後には「書評者が選ぶ‘11『この3冊』」がありました。さてっと、3・11を読もうとするのに、
手掛かりとなる本はというと、『この3冊』からさがしてみます。
五百旗頭真氏のとりあげている
河田恵昭著「津波災害」(岩波新書)。
それにそえた言葉は
「『津波災害』。本書を手にしておれば、もう少し津波から生き延びた人が多かったろう。今さらというなら、同じ著者がリードした『災害対策全書』全四巻を、次なる災害に備えて見ておきたい。」
ちなみに、五百旗氏は2011年1月23日の『今週の本棚』で、この本の書評をしておりました。それもp406~407に掲載されております。
つぎいきましょう。
池内紀氏の『この3冊』のはじまりは
山口弥一郎著「津浪と村」(三弥井書店)です
池内氏のはじまりは
「本の世界でも、衝撃的な3・11なしには考えられない年だった。
『津浪と村』は昭和8年(1933)の大津波のあと、若い研究者が八年がかりで調査・分析した記録。丁寧な解説つきで68年ぶりに復刊された。問題点と対策がはっきり指摘されていたにもかかわらず、再び二万人に及ぶ死者・不明者が出た。」
池内氏の2冊目は山本義隆著「福島の原発事故をめぐって」(みすず書房)。
池澤夏樹氏による3冊のなかには
昭文社出版編集部編「東日本大震災 復興支援地図」があります。
川本三郎氏の3冊は、最初に
長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社)。
「大震災というすさまじい現実を突きつけられ心が震える。どうしたらいいか分らない。それでも言葉は発したい。『震災歌集』はその切羽詰った気持から生まれた。現代を代表する俳人が俳句ではなく歌を詠んだ。次から次へと短歌が湧き上がってきた。それは読者の気持と強く触れ合う。」
小島ゆかり氏の3冊は、最初に
池澤夏樹著「春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと」(中央公論新社)
「震災以降の不安定な心と体を、どうしたらいいのか。『春を恨んだりはしない』を、被災地の現実から出発して、混乱した思考の迷路をゆっくりとほどく。日本はどういう国で、わたしたちはどのような精神史をもつ民族なのかを考える。性急な答えではなく、茫漠とした問いに向かって、心身の軸がしずかに定まる。」
中西聖子氏の3冊は、最後に
加藤寛・最相葉月著「心のケア 阪神・淡路大震災から東北へ」(講談社現代新書)
「原発事故に関する本を何か一つと思ったが、あまりにも差し迫った話題で、まだ本としての距離を置いて選べない状況である。落ち着いた『心のケア』を推しておくことにする。」
田中優子氏の3冊は、
開沼博著「『フクシマ』論 原子力ムラはなぜうまれたのか」(青土社)
「「『フクシマ』論」は今年だから出た本だ。時流に乗るのではなく足もとを見つめて書いた。そこには著者がこれから生きて行く上で大事な課題があったからだ。そこの原発事故が起こり出版された。なぜ地域が原発を受け容れたか、痛みと共に多くのことが分かる。」
次には
海渡雄一著「原発訴訟」(岩波新書)があげられております。
中村達也氏の3冊も、最初に
開沼博著「『フクシマ』論」をあげておられます。
「・・既に3・11以前から福島の現地に通いつめ、『原子力ムラ』がいかにして原発を『抱擁』するに到ったかを、当事者・地元紙・町村史にまで踏み込んで書き上げた作品。・・・」
ほかに文学作品としての3・11をとりあげた人もおられました。
それは省略します。
いちおう、掲載順に引用してきましたが、最後に
湯川豊氏の3冊の、最後
池澤夏樹著「春を恨んだりはしない」
「『春を恨んだりはしない』――東日本大震災と大津波の年。私自身も三陸海岸を中心に被災地に何度か足を運んでみたが、言葉を失って沈黙するのみ。池澤氏のこのリポートを読んで、考える場所、発言する場所を取り戻すことができるように思った。ありがたかった。」
さてっと、以上取り上げられた震災関連本。
私は、ほとんど読んでおりませんので、読んでみます。
ああ、忘れちゃならないもう一冊がありました。
本村凌二氏による3冊の最後でした。
梯久美子著「昭和二十年夏、子供たちが見た日本」(角川書店)
「『昭和二十年夏、子供たちが見た日本』――現在の大学生の祖父母にあたる七十歳代の方々は、この大戦を肌身で知る最後の世代だ。なかでも『散るぞ悲しき』の著者が狙い定めた著名人の戦争・戦後体験は、大震災後の今日だから、なおさら心ゆさぶるものがある。」
それが昨日届きました。
さっそくパラリと、あとがきをひらく。
選者二名を代表して池澤夏樹氏が書いておりました。
ここでは、あとがきの最後を引用。
「自分が読んだことがある本の書評に出会うと、そうかこういう深い読みがあるかと感心し、知らない本の書評を読むとその本が読みたくなる。ぼくも丸谷さんもこの『名作選』が取り上げた本の一割も読んでいないだろう。それで編纂の途中で読みたくなって注文した本が数十冊。古びない本を取り上げてきたからこその誘惑である。この三巻にはそういう危険な一面があることを警告しておく。読者諸姉諸兄くれぐれも散財にご用心を。」
誠実で懇切で、しかもユーモアのある書評を読めるよろこび。
いまなら、古本で読めるのだろうなあ。でも散財のご用心。
そううけとめました。
あとがきには、
「・・ちっぽけな領土がどうなろうと、我々は文化的には大いに栄えている」とあります。あとがきの日付は2012年10月。
あと十年二十年たってから、振り返ってみたい、
そんな池澤夏樹氏の一言。
あとがきの前、つまりこの書評本の最後には「書評者が選ぶ‘11『この3冊』」がありました。さてっと、3・11を読もうとするのに、
手掛かりとなる本はというと、『この3冊』からさがしてみます。
五百旗頭真氏のとりあげている
河田恵昭著「津波災害」(岩波新書)。
それにそえた言葉は
「『津波災害』。本書を手にしておれば、もう少し津波から生き延びた人が多かったろう。今さらというなら、同じ著者がリードした『災害対策全書』全四巻を、次なる災害に備えて見ておきたい。」
ちなみに、五百旗氏は2011年1月23日の『今週の本棚』で、この本の書評をしておりました。それもp406~407に掲載されております。
つぎいきましょう。
池内紀氏の『この3冊』のはじまりは
山口弥一郎著「津浪と村」(三弥井書店)です
池内氏のはじまりは
「本の世界でも、衝撃的な3・11なしには考えられない年だった。
『津浪と村』は昭和8年(1933)の大津波のあと、若い研究者が八年がかりで調査・分析した記録。丁寧な解説つきで68年ぶりに復刊された。問題点と対策がはっきり指摘されていたにもかかわらず、再び二万人に及ぶ死者・不明者が出た。」
池内氏の2冊目は山本義隆著「福島の原発事故をめぐって」(みすず書房)。
池澤夏樹氏による3冊のなかには
昭文社出版編集部編「東日本大震災 復興支援地図」があります。
川本三郎氏の3冊は、最初に
長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社)。
「大震災というすさまじい現実を突きつけられ心が震える。どうしたらいいか分らない。それでも言葉は発したい。『震災歌集』はその切羽詰った気持から生まれた。現代を代表する俳人が俳句ではなく歌を詠んだ。次から次へと短歌が湧き上がってきた。それは読者の気持と強く触れ合う。」
小島ゆかり氏の3冊は、最初に
池澤夏樹著「春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと」(中央公論新社)
「震災以降の不安定な心と体を、どうしたらいいのか。『春を恨んだりはしない』を、被災地の現実から出発して、混乱した思考の迷路をゆっくりとほどく。日本はどういう国で、わたしたちはどのような精神史をもつ民族なのかを考える。性急な答えではなく、茫漠とした問いに向かって、心身の軸がしずかに定まる。」
中西聖子氏の3冊は、最後に
加藤寛・最相葉月著「心のケア 阪神・淡路大震災から東北へ」(講談社現代新書)
「原発事故に関する本を何か一つと思ったが、あまりにも差し迫った話題で、まだ本としての距離を置いて選べない状況である。落ち着いた『心のケア』を推しておくことにする。」
田中優子氏の3冊は、
開沼博著「『フクシマ』論 原子力ムラはなぜうまれたのか」(青土社)
「「『フクシマ』論」は今年だから出た本だ。時流に乗るのではなく足もとを見つめて書いた。そこには著者がこれから生きて行く上で大事な課題があったからだ。そこの原発事故が起こり出版された。なぜ地域が原発を受け容れたか、痛みと共に多くのことが分かる。」
次には
海渡雄一著「原発訴訟」(岩波新書)があげられております。
中村達也氏の3冊も、最初に
開沼博著「『フクシマ』論」をあげておられます。
「・・既に3・11以前から福島の現地に通いつめ、『原子力ムラ』がいかにして原発を『抱擁』するに到ったかを、当事者・地元紙・町村史にまで踏み込んで書き上げた作品。・・・」
ほかに文学作品としての3・11をとりあげた人もおられました。
それは省略します。
いちおう、掲載順に引用してきましたが、最後に
湯川豊氏の3冊の、最後
池澤夏樹著「春を恨んだりはしない」
「『春を恨んだりはしない』――東日本大震災と大津波の年。私自身も三陸海岸を中心に被災地に何度か足を運んでみたが、言葉を失って沈黙するのみ。池澤氏のこのリポートを読んで、考える場所、発言する場所を取り戻すことができるように思った。ありがたかった。」
さてっと、以上取り上げられた震災関連本。
私は、ほとんど読んでおりませんので、読んでみます。
ああ、忘れちゃならないもう一冊がありました。
本村凌二氏による3冊の最後でした。
梯久美子著「昭和二十年夏、子供たちが見た日本」(角川書店)
「『昭和二十年夏、子供たちが見た日本』――現在の大学生の祖父母にあたる七十歳代の方々は、この大戦を肌身で知る最後の世代だ。なかでも『散るぞ悲しき』の著者が狙い定めた著名人の戦争・戦後体験は、大震災後の今日だから、なおさら心ゆさぶるものがある。」