和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

畏敬の念が。

2012-11-05 | 前書・後書。
谷沢永一・渡部昇一対談「誰が国賊か」(文春文庫)が出てきました(笑)。
その「あとがきにかえて」というのも対談になっており読ませます。
というか、私はとりあえず、そこだけ読み。

谷沢】 ・・つまり本を集めるということの基本には、先人に対する畏敬の念がなくては駄目なんです。世の中には、ちょっと斜に構えて、何事でも茶化してしまう人がいるでしょう。そういう人間は、絶対に本好きではありません。
渡部】 しかも本を愛すれば、素朴な愛国者になるんです。素朴に自分の生れた国を愛するようになるのですね。(p369~370)

こんな言葉もあります。

谷沢】 ・・私は何べんも書いているけれども、小説では司馬遼太郎、論説では渡部昇一・・・この二人が日本再発見の先頭旗手です。(p377)

うん。もし渡部昇一氏がお先に亡くなっていたなら、
谷沢永一氏は、司馬さんの時のように、一冊の追悼本を書きあげるのだろうなあ。

うん。ここでは、
渡部昇一・谷沢永一対談「読書談義」(徳間文庫)の
文庫版あとがき。そのはじまりを紹介。

「渡部昇一さんとの初対面は昭和54年である。ふたりとも既に五十歳をこえていた。通常、この年齢からの出会いが、心の友にまで発展することはむつかしいとされている。しかしわれわれの場合には奇跡がおこった。大修館書店の藤田恍一郎氏に紹介されて、いざ対談をはじめたそもそもの口切りから、私は志と嗜好を同じうする人に、今やめぐりあえたという喜びがこみあげてきた。それから早くも足かけ20年、渡部さんは常に私にとって心のよりどころであり、その思いはますます深まる一方である。・・・」
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山形への連想。

2012-11-05 | 地域
毎日新聞の11月4日「今週の本棚」に
堀江敏幸氏が書評を載せておりました。
鬼海弘雄著「眼と風の記憶 写真をめぐるエセー」(岩波書店)。
そこにこうあります。

「著者の郷里は、山形県寒河江市。かつては醍醐村と呼ばれた土地の米農家・・」

「初出は『山形新聞』。自伝風の話題が多いのはそのせいでもあるのだが、この一徹の人に感傷の色は少しもない。」

ふ~ん。私は知らなかったのですが、
鬼海弘雄氏は写真家なのだそうです。

そういえば、日曜日の朝のテレビで
山形県の芋煮会のようすが紹介されておりました。
NHK第一の朝6時15分から。
毎日新聞のテレビ欄には、こうあります
「うまいッ!美味!幻の里芋。山形。ヌメリに秘密が?」

ということで、
今週の本棚に(門)さんの書評で
佐野衛著「書店の棚本の気配」(亜紀書房)を見ても
関係もないのに、山形県へと連想がひろがります。
まずは、佐野衛氏について
「新刊書店の老舗、東京堂書店(東京・神田)で長く店長をつとめた著者の、読書エッセイを収めたもの。」とあります。
東京堂書店といえば、茨木のり子さんのエッセイに、この本屋へよく行くようなことが書かれていたなあと、思い出しさがすのですが、ちょっと見つからない。しかたない、詩の始まりでも引用しましょう。

  詩集と刺繍   茨木のり子

 詩集のコーナーはどこですか
 勇を鼓して尋ねたらば
 東京堂の店員はさっさと案内してくれたのである
 刺繍の本のぎっしりつまった一角へ

さて、茨木のり子著「言の葉さやげ」(花神社)の
最初に「東北弁」というエッセイがあるのでした。
こうはじまります。

「母は東北人であった。
さらに限定すれば、山形県の庄内地方の産である。鶴岡市から二里ばかり離れた在であった。長野県人であった父に嫁ぎ、大阪、京都、愛知と転々としたが、東北弁はずっとついてまわった。私が物ごころついた頃は、庄内弁をたっぷり浴びていたわけである。母は家のなかではいきいきしたお国言葉を駆使し、世間に対しては標準語を使っていたが、標準語のほうは得意ではなかったらしく、そちらのほうでは寡黙になりがちだった。
家のなかで奔放に庄内弁をしゃべりまくる母は天馬空を行くがごとしであったし、なるべくボロを出さないように、しおらしく標準語を操っているときの母とは、なにか別人のようにみえた。私が言葉というものになにほどか意識的になり、後年詩などを書いて踏み迷う仕儀に至るのも、遠因は母が二刀流のように使う二つの言葉のおもしろさに端を発していたのかもしれない。・・・」

さてっと、茨木のり子さんのご主人については、
花神ブックス1「茨木のり子」のなかで、
岩崎勝海氏が「三浦安信・のり子夫婦」と題する文の載せておりました。
そこに
「三浦安信さん。1918年8月28日生れ、山形県鶴岡市出身。旧制山形高等学校理科乙類に進まれ、医学を志望されて1945年、大阪帝国大学医学部を卒業。46年には新潟医大の助手になられた方である。月並ないい方になるが、眉目秀麗。端正な庄内藩士とでも形容すればぴったり。・・・私は、もし死んであの世というものがあるのなら、まずまっさきに三浦安信さんに会いたいと思っている。きっとまた安信さんは、いつまでも青臭い私の話を、あの庄内なまりの相槌とともにきいてくださるだろう。」


ちなみに、岩崎氏の文の最初の方に万国屋が登場しておりました。

「私の友人に、早稲田大学の政治学科の大学院までいって、後継ぎ息子ゆえに山形県温海温泉のホテル万国屋の社長をしている本間新哉君がいる。その彼の従兄に三浦安信さんという方がおられた。」


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