柳田国男著「村と学童」の「あとがき」には
昭和23年12月と日付があります。
そのはじまりを引用。
「ちやうど今から四年前、空の猛火はだんだんに迫って来て、自分たちの生死も全く不定であつたころ、村に避難して居る小学生諸君、さういふ中でも殊に始めて親の手を離れて、淋しがつて居る女の子に読ませたいと思つて、私はこういふ文章を十ばかり書いて見た。其中の六つを一冊の本にまとめて、『村と学童』といふ名で出版して居る。可なり急いだけれども印刷が間に合はず、あの八月十五日も過ぎてから、やつと世の中へ出ることになつた。・・・・
しかしこの本の中に書いてあることは、戦がすんでしまへばもう用は無いと、いふやうな種類のものでは無かつた。・・・現在は・・疎開の日のことなどは忘れかけて居るであろうが、皆さんが大きくなり、上の学校に進み、社会の数々の問題に触れて行くたびに、きつとあの当時の印象があざやかに活きかへり、どういふわけでといふ不審を、今に起こさずには居られなくなるであろう。・・・・」
私は、この箇所を読み返していると、
直接には、この本の内容と関係がないのですが、
皇后美智子さまの「橋をかける 子供時代の読書の思い出」(すえもりブックス・のちに文庫も出版)一節を思い浮かべるのでした。
ということで、その箇所を引用。
「私の子供の時代は、戦争による疎開生活をはさみながらも、年長者の手に護られた、比較的平穏なものであったと思います。そのような中でも、度重なる生活環境の変化は、子供には負担であり、私は時に周囲との関係に不安を覚えたり、なかなか折り合いのつかない自分自身との関係に、疲れてしまったりしていたことを覚えています。そのような時、何冊かの本が身近にあったことが、どんなに自分を楽しませ、励まし、個々の問題を解かないまでも、自分を歩き続けさせてくれたか。・・・」
うん。この「橋をかける」では、柳田国男の「村と学童」は出てこないのですが、大人になってから、読まれたのではないかと、あれこれと想像してみるのでした。
それにしても、あとがきにあるところの
「村に避難して居る小学生諸君、さういふ中でも殊に始めて親の手を離れて、淋しがつて居る女の子に読ませたいと思つて」という箇所は印象に鮮やかなのでした。
昭和23年12月と日付があります。
そのはじまりを引用。
「ちやうど今から四年前、空の猛火はだんだんに迫って来て、自分たちの生死も全く不定であつたころ、村に避難して居る小学生諸君、さういふ中でも殊に始めて親の手を離れて、淋しがつて居る女の子に読ませたいと思つて、私はこういふ文章を十ばかり書いて見た。其中の六つを一冊の本にまとめて、『村と学童』といふ名で出版して居る。可なり急いだけれども印刷が間に合はず、あの八月十五日も過ぎてから、やつと世の中へ出ることになつた。・・・・
しかしこの本の中に書いてあることは、戦がすんでしまへばもう用は無いと、いふやうな種類のものでは無かつた。・・・現在は・・疎開の日のことなどは忘れかけて居るであろうが、皆さんが大きくなり、上の学校に進み、社会の数々の問題に触れて行くたびに、きつとあの当時の印象があざやかに活きかへり、どういふわけでといふ不審を、今に起こさずには居られなくなるであろう。・・・・」
私は、この箇所を読み返していると、
直接には、この本の内容と関係がないのですが、
皇后美智子さまの「橋をかける 子供時代の読書の思い出」(すえもりブックス・のちに文庫も出版)一節を思い浮かべるのでした。
ということで、その箇所を引用。
「私の子供の時代は、戦争による疎開生活をはさみながらも、年長者の手に護られた、比較的平穏なものであったと思います。そのような中でも、度重なる生活環境の変化は、子供には負担であり、私は時に周囲との関係に不安を覚えたり、なかなか折り合いのつかない自分自身との関係に、疲れてしまったりしていたことを覚えています。そのような時、何冊かの本が身近にあったことが、どんなに自分を楽しませ、励まし、個々の問題を解かないまでも、自分を歩き続けさせてくれたか。・・・」
うん。この「橋をかける」では、柳田国男の「村と学童」は出てこないのですが、大人になってから、読まれたのではないかと、あれこれと想像してみるのでした。
それにしても、あとがきにあるところの
「村に避難して居る小学生諸君、さういふ中でも殊に始めて親の手を離れて、淋しがつて居る女の子に読ませたいと思つて」という箇所は印象に鮮やかなのでした。