谷沢永一著の
「人間の見分け方」(H&I)
「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書)
にこんな箇所。
「戦争中に爆撃でやられて疎開したあと、
大阪へ戻って阿倍野区に住んだ。
そこから開高健の家まで歩いて十五分ぐらいだった。
ちなみに、詩人の小野十三郎の家まで歩いて十分ぐらい、
河野多恵子の家は二分ぐらいと、
後に私の運命と関係を持つ人が近所にいた。
この手の運は選べるものではない。」
(「人間の見分け方」p46)
「もう一つ、
これは非常に重要なことだが、
女性の悪口は気をつけなければいけない。
恨みの度合いが男と違う。
私は河野多恵子から
『女流作家の悪口だけは書いてはいけない。
末代までたたるから』と言われたことがある。
そのおかげというわけではないが、
私はついにいっぺんも書いたことがない。
野坂昭如が私の『紙つぶて』を読んで見つけたことは、
女流の悪口が一言もないことだった。」(同p177~178)
「それから、近くに藤本進治という、
無名で亡くなった哲学者ですが、
これが大変な物知りで、出身は関大の経済学部ですが、
哲学者のくせに、近代日本文学についても、
じつに詳しい人です。ところが、
世渡りの非常に下手な人でしたから、本は買えない。
コクヨの四百字詰めの原稿用紙に、
自分で勝手に発表のあてもなく論文を書いて、
今度はそれをまた裏返して、今度は半分に切って、
裏は真っ白ですね、そこへ読んだ本の抜き書きをするんですよ。
その抜き書きがたくさんありました。
ほんとに博学多識といいますか、
そういう先生と知り合うことができました。
全部ほんとに近所にいた。」
(「運を引き寄せる十の心得」p72)
このすぐあとに、
小野十三郎氏の家へ出かけて、
ごく自然に、コラムを書き始めるという、
顛末が出て来て読ませます。
藤田進治氏については、
他の本でも、登場していたはずなのですが、
さて、どこだったか(笑)。
「人間の見分け方」(H&I)
「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書)
にこんな箇所。
「戦争中に爆撃でやられて疎開したあと、
大阪へ戻って阿倍野区に住んだ。
そこから開高健の家まで歩いて十五分ぐらいだった。
ちなみに、詩人の小野十三郎の家まで歩いて十分ぐらい、
河野多恵子の家は二分ぐらいと、
後に私の運命と関係を持つ人が近所にいた。
この手の運は選べるものではない。」
(「人間の見分け方」p46)
「もう一つ、
これは非常に重要なことだが、
女性の悪口は気をつけなければいけない。
恨みの度合いが男と違う。
私は河野多恵子から
『女流作家の悪口だけは書いてはいけない。
末代までたたるから』と言われたことがある。
そのおかげというわけではないが、
私はついにいっぺんも書いたことがない。
野坂昭如が私の『紙つぶて』を読んで見つけたことは、
女流の悪口が一言もないことだった。」(同p177~178)
「それから、近くに藤本進治という、
無名で亡くなった哲学者ですが、
これが大変な物知りで、出身は関大の経済学部ですが、
哲学者のくせに、近代日本文学についても、
じつに詳しい人です。ところが、
世渡りの非常に下手な人でしたから、本は買えない。
コクヨの四百字詰めの原稿用紙に、
自分で勝手に発表のあてもなく論文を書いて、
今度はそれをまた裏返して、今度は半分に切って、
裏は真っ白ですね、そこへ読んだ本の抜き書きをするんですよ。
その抜き書きがたくさんありました。
ほんとに博学多識といいますか、
そういう先生と知り合うことができました。
全部ほんとに近所にいた。」
(「運を引き寄せる十の心得」p72)
このすぐあとに、
小野十三郎氏の家へ出かけて、
ごく自然に、コラムを書き始めるという、
顛末が出て来て読ませます。
藤田進治氏については、
他の本でも、登場していたはずなのですが、
さて、どこだったか(笑)。