吉田暁子著「父 吉田暁子」(河出書房新社)を読む。
はじまりは、こうでした。
「 小説を書こうとしてうまく行かず。
『まっすぐな線が一本でも引ければ』と
思って批評をやってみることにしたと、
父がどこかで書いていた。
いい言葉だと思った。 」
また、こんな箇所もあります。
「父の迫力は何かが外に広がろうとする迫力ではなく、
そこに或る確固としたもの、不動のものが、
ただ在るという迫力である。」(p44)
暁子さんによる、ゆっくりと織り上げられた父親像。
読む方が、かってに作りあげた吉田健一像を、
ていねいに、消し去ってくれるような深い味わい。
この消し去った地点から、もう一度、
吉田健一を読んでごらんなさいと、
まるで、いざなわれているかのようです。
そういえば、
篠田一士著「吉田健一論」(筑摩書房)に
「写していて気がつくのは、
やはり、吉田健一の文章は旧カナ遣いで読まなくては、
サマにならないというか、読めるものも
読めないのではないかということである。
もちろん、吉田氏が書いた原文は旧カナ遣いだった
はずだが、雑誌の方針だとか、読者のためだとか、
もっともらしい御題目を口実に、
編集者が新カナ遣いに直してしまうのである。
心ない仕業にちがいないが、
吉田氏自身も、この点、おどろくほどの鷹揚さで、
旧カナ遣いで書いた文章を滅多矢鱈と直されても、
『ああ、いいですよ、ああ、いいですよ』の一点張りで、
最後に『どうせ、ちゃんとしたものは著作集に出しますから』
といった捨て台詞をつけるのが口癖だった。
それはともかく、旧カナ遣いで書かれたものは、
旧カナ遣いで読むのが本筋であることはいうまでもない。
・・・・・
原文では『つ』になっているはずのものを、
促音記号の『っ』にしてあるのを読まされるのは、
なんとなくせきたてられるようで、
折角の文章の流れに、目ざわりな棒杭を立てた感じである。」(p11~12)
私など、新仮名に惑わされていたのだと、
改めて、思い知らされた気がします。
旧カナの息遣いを、吉田健一で味わう。
そんな、楽しみがあるのだなあ(笑)。
うん。今度読むときは、
ここを、押さえることにします。
まっすぐな線を引く、旧カナの息遣いを
どうか、私も味わえますように(笑)。
はじまりは、こうでした。
「 小説を書こうとしてうまく行かず。
『まっすぐな線が一本でも引ければ』と
思って批評をやってみることにしたと、
父がどこかで書いていた。
いい言葉だと思った。 」
また、こんな箇所もあります。
「父の迫力は何かが外に広がろうとする迫力ではなく、
そこに或る確固としたもの、不動のものが、
ただ在るという迫力である。」(p44)
暁子さんによる、ゆっくりと織り上げられた父親像。
読む方が、かってに作りあげた吉田健一像を、
ていねいに、消し去ってくれるような深い味わい。
この消し去った地点から、もう一度、
吉田健一を読んでごらんなさいと、
まるで、いざなわれているかのようです。
そういえば、
篠田一士著「吉田健一論」(筑摩書房)に
「写していて気がつくのは、
やはり、吉田健一の文章は旧カナ遣いで読まなくては、
サマにならないというか、読めるものも
読めないのではないかということである。
もちろん、吉田氏が書いた原文は旧カナ遣いだった
はずだが、雑誌の方針だとか、読者のためだとか、
もっともらしい御題目を口実に、
編集者が新カナ遣いに直してしまうのである。
心ない仕業にちがいないが、
吉田氏自身も、この点、おどろくほどの鷹揚さで、
旧カナ遣いで書いた文章を滅多矢鱈と直されても、
『ああ、いいですよ、ああ、いいですよ』の一点張りで、
最後に『どうせ、ちゃんとしたものは著作集に出しますから』
といった捨て台詞をつけるのが口癖だった。
それはともかく、旧カナ遣いで書かれたものは、
旧カナ遣いで読むのが本筋であることはいうまでもない。
・・・・・
原文では『つ』になっているはずのものを、
促音記号の『っ』にしてあるのを読まされるのは、
なんとなくせきたてられるようで、
折角の文章の流れに、目ざわりな棒杭を立てた感じである。」(p11~12)
私など、新仮名に惑わされていたのだと、
改めて、思い知らされた気がします。
旧カナの息遣いを、吉田健一で味わう。
そんな、楽しみがあるのだなあ(笑)。
うん。今度読むときは、
ここを、押さえることにします。
まっすぐな線を引く、旧カナの息遣いを
どうか、私も味わえますように(笑)。