この機会に「法華経」を読めるかもしれない。
というので、
庭野日敬著「開祖随感」(佼成出版社の文庫)
をパラパラとひらきはじめる。
「開祖随感」2、には
こんな箇所。
「称名(しょうみょう)念仏というのは、
文字どおり『南無阿弥陀仏』と
仏の名を繰り返し称えることですし、
唱題とは『南無妙法蓮華経』と
お経の題名を唱えることです。」(p31)
そうなんだ。
私ははじめて知りました(笑)。
この本に
「地涌(じゆ)の菩薩の誓願」と題する
2頁の文があります。
その後半を引用。
「精神界の偉大な指導者が現れない
時代には法が見失われ、仏教は衰退
してしまいます。その法が見失われた
時代を『末法』というのですが、お釈迦
さまは、そうした『末法の世には地涌の
菩薩が出現しなければならない』と
おっしゃられています。
地涌の菩薩とは、人間としてあゆむべき
正しい道に気づかずにいる大衆に対して、
その人たちと生活をともにして、人びと
に目覚めと救いをもたらそうという誓願
をもって立ち上がった人のことです。
人が救ってくれるのを待っているのでなく、
自ら決心して立ち上がる人、その人たちに
お釈迦さまは法華経による救いを託された
のです。」(p223)
庭野日敬著「法華経の新しい解釈」には
「従地涌出品第十五」の解釈の最後に
こう指摘されておりました。
「なお、この偈(げ)の中に
『世間の法に染まざること
蓮華の水に在るが如し』
という一句があります。
これこそ、『法華経』に教えられている
人間の理想的なありかたです。
世間から離れるのではない。
世間にいながら美しく清らかに
生活するのです。そして、社会の
すべてをこのように清らかに、美しく
したいというのが『法華経』の理想なのです。
『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』
という名前は、そこから出ているのです。」
(p303)
うん。法華経は全部読めそうもないので、
せめて、この『従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)
第十五』をもうすこし
ていねいに読んでみます。
さいわい
立正佼成会の「訓譯妙法蓮華経」もある。
まわりまわって、遅ればせながら、
やっと、法華経が恋しい年頃となった
のかもしれません。
というので、
庭野日敬著「開祖随感」(佼成出版社の文庫)
をパラパラとひらきはじめる。
「開祖随感」2、には
こんな箇所。
「称名(しょうみょう)念仏というのは、
文字どおり『南無阿弥陀仏』と
仏の名を繰り返し称えることですし、
唱題とは『南無妙法蓮華経』と
お経の題名を唱えることです。」(p31)
そうなんだ。
私ははじめて知りました(笑)。
この本に
「地涌(じゆ)の菩薩の誓願」と題する
2頁の文があります。
その後半を引用。
「精神界の偉大な指導者が現れない
時代には法が見失われ、仏教は衰退
してしまいます。その法が見失われた
時代を『末法』というのですが、お釈迦
さまは、そうした『末法の世には地涌の
菩薩が出現しなければならない』と
おっしゃられています。
地涌の菩薩とは、人間としてあゆむべき
正しい道に気づかずにいる大衆に対して、
その人たちと生活をともにして、人びと
に目覚めと救いをもたらそうという誓願
をもって立ち上がった人のことです。
人が救ってくれるのを待っているのでなく、
自ら決心して立ち上がる人、その人たちに
お釈迦さまは法華経による救いを託された
のです。」(p223)
庭野日敬著「法華経の新しい解釈」には
「従地涌出品第十五」の解釈の最後に
こう指摘されておりました。
「なお、この偈(げ)の中に
『世間の法に染まざること
蓮華の水に在るが如し』
という一句があります。
これこそ、『法華経』に教えられている
人間の理想的なありかたです。
世間から離れるのではない。
世間にいながら美しく清らかに
生活するのです。そして、社会の
すべてをこのように清らかに、美しく
したいというのが『法華経』の理想なのです。
『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』
という名前は、そこから出ているのです。」
(p303)
うん。法華経は全部読めそうもないので、
せめて、この『従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)
第十五』をもうすこし
ていねいに読んでみます。
さいわい
立正佼成会の「訓譯妙法蓮華経」もある。
まわりまわって、遅ればせながら、
やっと、法華経が恋しい年頃となった
のかもしれません。